□広がる海の蒼□







 サンジの顔のすぐ隣にあるスプリングの利いたマットレスがゾロの拳を飲み込んだ。

「ナニしてんだよゾロ!!」

 チョッパーが人獣型になり、ゾロを背後から羽交い絞めにした。
 サンジは微動だにせずゾロの瞳を見上げていた。
 ルフィは腕組みをしたままじっと動かない。

「アホかゾロ!!やっとの思いでお前が助け上げてきたんだろが!!」

 ウソップが両手を広げてゾロに向かって強い口調で言う。

「お前…サンジ殺す気かよ!」
「あんたバカじゃないの?」

 更に言葉を続けたウソップの声にナミの声が重なった。二人ともまっすぐにゾロを見て、一歩も引かない構えだ。
 表情を消して、ぎり、と歯軋りをして、ゾロは未だ掴んだままだったサンジの胸倉をようやく離した。
 ごく僅かにサンジが表情を変化させた。何かを言いかけたようだったが音声認識できる言語にそれはならなかった。

「隔離」

 短いがはっきりしたルフィの声が響いた。

 腕組みを解いてルフィはゾロのそばまで歩いてくると、ゾロの肩にぽん、と右手を乗せて表情を消したままのゾロの瞳を下から覗きこんだ。

「ほっといたらゾロはサンジのこと殴っちまうんだろ。今のサンジをゾロに殴られたら上手いメシが食えなくなる」

 それだけ言ってルフィはすたすたと女部屋の梯子を上り、ばたんと扉を跳ね上げて、甲板に帰っていってしまった。




「サンジ」

 同じ体勢で横になり続けると、同じ部分に体重がかかり、その部分の血流が悪くなってくる。
 チョッパーはサンジに声をかけてから、注意深くその身体を右向きに寝かし変えた。

 ばっくり切られている太腿や、背中の酷い裂傷。全身に残る無数の火傷、固い樫の木と鉄によってつけられた枷の痕がくっきり残っている足首。

 今のチョッパーの持てる技術を尽くした結果、サンジの容態はとりあえず落ち着いていた。まあ神の電撃を食らっても立ち上がるような男だから、身体の頑丈さで言えば折り紙つきだ。
 しかし勿論予断を許さない容態であることは確かだ。チョッパーはサンジの額に乗せたタオルを取り、彼の枕元にある、樽を改造した桶の中の冷たい水に浸す。そして、ぎゅっと絞ってそのタオルをサンジの額に乗せ直した。

「サンジ、今はとにかく身体を治すことだけ考えろ。俺が必ずちゃんと治してやるから」
「チョッパー…」

 まだ自由に身体を動かせないのか、右手をチョッパーのほうに動かそうとしてサンジは思い切り眉間に皺を寄せ、僅かにうめき声を上げた。

「とにかくゆっくり身体を休めろ。今サンジの体は怪我を治すために一生懸命がんばってるんだからな。これ以上身体に無理させるな」

 眉を下げて、懇願するような口調で言うチョッパーに、サンジは何も言い返すことができなかった。サンジにできたことは、微かに頷いてチョッパーの心配を少しだけ払拭するということだけだった。




「あの暴力マリモ…!!信じらんない!!!」

 サンジをチョッパーに任せて女部屋を出たナミは、甲板に上がってくると開口一番そう言ってウソップに向かって指を突きつけた。

「そそそそこで何で俺に言うんだ!そんなのはゾロに直接…!」

 ナミの鬼気迫る表情に足をガタガタ震えさせてウソップが言う。

「ルフィがあの最低マリモを隔離してるんでしょ!て言うかルフィもルフィだわ。隔離だけだなんて生ぬるい…!ゾロは動くことのできないサンジくんに殴りかかったのよ!!」
「ナミ…八つ当たりされても…」
「ナニ、なんか言った?!」

 どすどすと強い足音を立て、ナミは甲板に出してあったデッキチェアにどしんと腰をおろして足を組んだ。

「…なんでゾロがサンジを殴りたかったのか」

 ナミの背後からいきなり声が降ってきた。驚いてナミが振り返ると、麦藁帽子で表情を隠したルフィがそこに立っている。

「それがわかんね―ようなサンジなら、俺だって殴りてぇ」
「……!」
「ル…!」

 そう言うとルフィはくるりと回れ右をした。「ゾロはしばらく倉庫にでも放り込んどく」そう言い残すと、女部屋を後にしたときと同じようにすたすたすたと、今ゾロがいるであろう船尾に向かって歩き出した。
 ナミとウソップはお互いに顔を見合わせて、同じタイミングでルフィを見やり、その赤い服の後姿が麦藁帽子を被りなおすのをじっと見送った。






「暗い顔をして、どうしたの」

 船尾でゴーイングメリー号の柵に背を持たせかけていたロビンの前に現れた緑の髪の剣士に、座り込んだまま彼女は声をかけた。
 ゾロはたった今ロビンに気づいたかのように目を丸くして彼女をみると、ふい、と横をむいてぶっきらぼうに「何でもねぇよ」と返答する。

「重症のコックさんに殴りかかることが何でもないことなのね」
「……!」

 恐ろしい形相でゾロは勢いよくロビンに振り向いた。
 この女はどこにでも手を咲かせ、目を咲かせることができるのだ。知っていてゾロに声をかけたに違いない。
 知っていていちいちそう回りくどい聞き方をするこの女にも腹が立ったが、それ以上にゾロは今激しく自分を呪いたかった。


 自分を制御できなかった。どうあってもあのアホエロコックを殴りたかった。
 言って聞かせて言うことを聞くような男ならあんなベッドの上であんな苦しそうに横たわっているわけないのだ。

 自分ひとりだけあの恐ろしい海軍の元に残り、巧妙に仲間を逃がし――――

 どんな拷問にも屈することなく決して仲間の居場所を喋ることなく

 そしてつまりは「口を割らない」というその理由で、本当に死にかけたこの大馬鹿野郎は……!

 そう思ったら体が勝手に動いていた。
 悔しかった。悔しくて悔しくて、ものすごく腹が立った。



 サンジに、「逃がす対象」としか思われていなかった自分と言う存在が―――



「あいつ勝手に一人残りやがって」

 知らず、ゾロの口から言葉がこぼれ出た。
 胸の中がぐちゃぐちゃしている。あんまりぐちゃぐちゃしているので頭の中もそれにあわせて盛大にぐちゃぐちゃし始めた。
 その証拠に常のゾロなら決して吐露しないような胸の中の言葉を、なぜかいけ好かない黒髪の女の前で口にしている。
 ロビンは、少し驚いたような表情を顔に浮かべたが、柔らかく微笑むと、右手でほお杖をついてゾロに向かって言った。

「私たちを助けようとしてくれたんでしょう。組織としては彼のような存在は貴重よ」
「組織じゃねぇっ」

 珍しく声を荒げてゾロは即座にロビンの言葉を否定する。

「フフ…そうね。この船に組織と言う言葉が当てはまるとは私も思わないわ」

 ひざを立てて肘を支えてロビンは左手にどこから出してきたのかよくわからない酒瓶をぶらぶらさせた。

「それなら仲間が一人減る、ということが嫌なの?」
「……そうじゃねぇ」

 サンジを殴りそうになった拳を力いっぱい握りしめ、ゾロは喉の奥からそれだけを搾り出した。
 ロビンが少し首をかしげてゾロを見上げる。

 全くどうかしている。

 ゾロはそんなことは自分でよくわかっていた。
 今のゾロは明らかにおかしい。

 おかしい証拠にどうだ。大変なことを口に出している。

「俺はそんなに弱く見えるのか……?」

 ぽつり、とゾロはつぶやくように言った。ロビンの黒い髪が潮風にあおられてはらはらと零れ落ちる。

「あんな海軍にやられる程…!」
「コックさんはヌールの恐ろしさと周到さをよくわかっていたはずだわ」

 左手の酒瓶を右手に持ち替えてロビンはその瓶のコルク栓を抜いた。

「おとり、陽動、包囲網…彼女が海賊にしてきた行為をよく知っていたからこそ、コックさんはあなたたちが傷付くのを見るのがきっと嫌だったのよ」
「だから俺は、そうとしか思われないほど弱いのか?」

 歯をかみ締め、口角を下げて、肩をぶるぶるいわせながら、ゾロは普段の彼なら決して口に出しはしないことを再びロビンに向かって言った。

「剣士さん…?」

 ロビンがコルク栓と酒瓶を手に驚いた表情でゾロを見上げた。歯を食いしばったゾロの表情は、彼女が今まで見たこともないようなものだった。

「コックさんに信頼してもらえなかったのが嫌なのね」

 またどこから出してきたかわからないようなグラスをいつの間にか2つ左手に持ち、ロビンは酒をなみなみとそこに注いだ。
 そして、ゾロにグラスを一つ差し出す。
 引っ手繰るようにしてそれを掴むとゾロは一気にその酒を嚥下して、その勢いのまま喋り始めた。

「一人で全部背負い込んで、一人で全部やっちまおうとするあのアホコックが!!俺なんかあいつにとっていてもいなくても同じようなモンじゃねーか!」
「剣士さん、それだとまるで……」

 肩で息をして、右腕でぐっと口元をぬぐうゾロに、ロビンは立ち上がって少し間を置いて口を開いた。

「コックさんのことが好きで好きでたまらないみたいよ」









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2004年2月13日



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