Tightrope Walkers −八戒サイド





 菜種梅雨が桜を散らしていく。雨のせいか薄暗い曖昧な時間。こんな日は悟浄は出掛けない。それは僕のせいだと解っているけど、そのことを彼に態々言ったりしないそんな自分の狡さに目を瞑っている僕。どこまでも汚い自分。こんな僕を黙って受け入れてくれている悟浄の懐の深さ。甘えすぎているのは自覚しているけれど、どうしようもない。

 早めの夕食が終わると悟浄は自分の部屋に戻っていった。冷たい水で食器を洗う。指の間を流れていく水が血の色をしているような気がして、手の匂いをかいでしまう。洗剤の匂いしかしないのは解っているのに。食器を乾いた布巾で拭いて、全て定位置に戻す。こういう作業がどれだけ今の自分を支えてくれているのか。なにもかも投げ出して壁を見詰めるだけの日々をすごす自分が、隙があれば今の自分ととって変わろうとすぐ近くで待機している。それは、あの日から変わってはいない。

 胸の中でせりあがってくるものが、なんなのかわからない。だけど僕は手を拭き終わったらそのまま悟浄の部屋にいくのだろう、今日も。自虐の底にまざまざと横たわっている性欲。僕はそれを吐き出したいだけなのかもしれない。もう誰も抱けないのに。抱く資格などあの日からとうに失われているのに。そんなことまで、悟浄はわかっているのだろうか。どこまで、優しくて残酷なんだ、あの人は。

 「来れば」

 ほんの微かなノックの音を悟浄が聞き逃すことはない。低い声が耳にとどけば、僕はためらわずにドアを開ける。薄暗がりの中に深紅の髪が艶やかに流れている。
ベッドサイドまで近づき、両手を重ねて紅の瞳に差し出す。僕をこの世界につなぎ止める深紅。ただ一つの戒め。決して拭うことのできない血にまみれたこの手を、
無造作に掴みその紅に似た色のロープで縛る。手首を戒めるロープの紅を見る度に僕の心は安堵したように息をつく。あの日、斜陽殿でこの手に嵌められた手錠の冷たい感触が蘇ってくる。あの時もこんなふうに僕の心は深く息をついた。あの時はこれでもう終わるのだという安堵感だったけれど。前髪が掻き上られてモノクルが外される。僕は悟浄のハイライトの香りのする乾いた唇を待ち望んでいる。暖かい舌が僕のざらついた内部を蹂躙してくれるのを息を潜めて待っている・・・ゴメン、ユルシテ・・・

 「腕あげて、八戒」

 戒められたままの両腕を頭上に掲げれば、それはそのまま懲罰の形。・・・ダレカ殺シテ、僕ヲ殺シテ・・・シャツの釦が外されていけば、ひんやりとした宵闇が肌を撫でる。ふいに腰を抱き寄せられて鎖骨に湿った熱。かろうじて身を捩ることを堪えても粟立つ肌を悟浄に気取られていないはずはない。軽く歯をあてがわれ首筋をなめ上げられれば思わずモットツヨク、ツヨク、噛ミキッテと願う。そんな願いとうらはらに両足の間の疎ましい雄は熱をもって質量をましていく。

 この浅ましい身体を抱きすくめるようにしてベッドに横たえ悟浄の長身が覆いかぶさる。醜い傷痕がすべて晒される。きつく目を閉じているのに、僕の剥き出しの肌は悟浄の視線を感じて深いところで染まり始める。無骨な指が傷痕をなぞる。時折立てられる爪の刺激が微細な電流のような快感を生みそれが次々とより強いうねりとなって全身を這いまわる。快感の裏側にぴったりと張り付いている淡い嫌悪感が快感の縁取りをより鮮明に際立たせ、微かな苦みのような嫌悪感はより強い刺激をねだって、僕の中枢を麻痺させていく。

 「腰、ちょっと上げて」

 ジッパーが下ろされる音がして腰まわりが解放される。この声に従うだけの意識しか今はいらない。すべてを晒して呼吸を荒げている僕を悟浄がどんな目で見て居るのか、それを確かめるなんてできやしない。浅ましい欲が刺激を求め、泣き叫んで、敏感な内股に乾いた掌を感じればハヤクと呻く。

 突然、手首を掴まれ上半身が引き起こされる。二の腕に軽い衝撃がかかって少しのけぞるような形でベッドヘッドに背中を押し付けられた。僕はそれでも目を開けることができない。悟浄の深紅の眼に映る自分のあさましい姿を見たくなくて。そしてその眼が浮かべているだろう軽侮の色を見たくなくて。欲に煽られた気持ちの片隅でそんなことをまだ考えられる自分が、とてつもなく嫌で嫌で嫌で嫌で。
 ン・・・ッ 痛いほど強く顎に手がかかり、凶器のように熱い舌が侵入してきた。貪られながらも、必死にからめかえす僕の舌は僕よりも素直なんだろう。足の間に屹立するものに悟浄の膝がこすり付けられる。それだけで腰が浮きそうになる。全てがモノクロだったあの雨の中で、僕をのぞき込んだ悟浄の深紅だけが色をもっていたように、悟浄が与えてくれる快感だけが僕に現実感を与えてくれる。身体から遊離しそうな精神を繋ぎとめてくれる。だから、浅ましくみだれる僕を許して。

 間近にあった体温が、ふと消えた。うろたえて、薄く眼を開けてみれば悟浄はベッドサイドのテーブルの引き出しからなにかを取り出している。いなくなった訳ではないと、ほっとして又眼を閉じる。悟浄の気配を足元に感じた途端、両膝が大きく割られた。中心をひやりとした空気に晒されれば身体の深部に蓄えられきた熱が肌の表面にのぼってくる。無様に勃起した僕のモノを何かが這ってゆき、爬虫類の細い舌で愛撫されるようなぬめった感触は僕を圧倒する。人の指とはまるで違う冷たい感触が間断なく与える刺激に声をおし殺すことももうできない。

 切れ切れの意識を、もう、と・ば・し・・・
 
「触ってほしいンだろ」

 直接、頭の中に響くように悟浄の声が聞こえる。懸命に振ったつもりの頭は小さく揺れただけだった。掴まれた手首が導かれた箇所で、悟浄の残酷な意図に気づいた。オイル塗れのソコを握らされた両手ごと扱きあげられて、悲鳴のような声が漏れた。せめてこのまま悟浄の手が重ねられいるうちにいきたいのに、切羽詰まった欲望と不自由な手だけが残される。とばしきれない意識を恨めしく思う余裕などとうに失せているから、だから、僕は、紅い瞳になにもかも晒して、手のひらも指もオイルで汚す。あの日塗れた夥しい血に似たぬめりのオイルで。ざわつく感触が尾骨を駆け登る。それがまぎれもない快感であることの自己嫌悪に追い詰められながら、それでも止めることはできない。
 カチッと小さな音がして、ハイライトの香りが漂ってくる。目をつむっている処為か、いつもより鮮やかに香りが立っている。その香りと見えない煙が悟浄その人の肌にふれているようで、僕はこのまま一気に駆け上がりたくて手を懸命に動かす。

 あと・・・もう・・・なのに・・・

 手首を掴みあげられて中断させられた欲は行き場を失って渦をまく。

 「まだ早いって」

 思わず開いた目に飛び込んできたのは熟れた茱萸の実のような紅。潤んで熱を持ったその目は押さえ切れないオスの欲望の処為だということを僕にはもうわかっている。そしてそれは悟浄にとっては普段なら滑稽でしかない同性の痴態に煽られたもので、そのことを朝になれば疎ましく思うだろうということも。引き寄せられて味わう胸の暖かさは一瞬でしかなくて、すぐにうつ伏せの姿勢を強いられる。縛られた手首のせいで妙にねじれた腰と背中。背中の敏感な箇所を狙って垂らされたオイルが与える新たな快感に漏れ続ける声は、自分でも聞いたことのない嬌声になっている。オイルの上を指が這う。時折、爪を立てひっかくようなアクセントをまぜて這いまわる指は、僕の知らないポイントを次々に暴いていく。
その指先の熱といっしょに悟浄が僕を欲している気持ちが伝わってくる、と感じるのはうぬぼれなんだろう。そんなことはありえないのだから。よぎった思いを見透かされたかのように、腰を掴まれて四つん這いにさせられた。あまりにも恥ずかしい部分を容赦なく弄られて感じて・・・僕は・・・
 
「イッてよ、八戒」

 耳元でかすれた声に囁かれた瞬間に、弾けた。全身の力が抜けて、たった今吐き出した精液の上に僕は崩れて、肩で荒く息をし続ける。
 無言のまま悟浄の手が僕の手首を戒めたロープをほどく。そうして音も立てずに部屋から出て行く。



 優しくて残酷なあの人に、こんなことまでさせて、それでも僕はここにいたい。もう少しここで繋ぎとめられていたい。それが自分勝手なエゴでしかないことは、分かりきっているけれど。だから

 「ごじょぉ・・・」







                                   
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