雪は結晶で降ってくる

「ただいま」
「おかえりなさい」
ぐっしょりと濡れそぼった悟浄の上着を受け取りながら、八戒は笑顔を作った。
どうか、この笑顔が悟浄に不信がられませんように。いつもと同じ笑顔になっていますように―――
「雨、ひどくなってきたなー」
「まだ雪にならないんですかね」
タオルをわたして、できる限り悟浄の顔を見ないようにする。自分の顔には笑顔をつくろって。
「雪になる前に、帰ってくるっていったっしょ?」
悟浄が言う。
できる限り平静を装って、悟浄とふつうの会話をしなければならない。
もう、これ以上悟浄につらい思いはさせたくない。
まったく悟浄と関係のないところで悟浄に負担をかけたくない。
幸いに悟浄はタオルでがしがし髪を拭いているから自分のこの微妙な表情は見られていないはずだ。
ストーブの上からもう既に水が残り少なくなっているやかんを持ち出し、冷え切った悟浄の体を温めるためにお茶を入れる。
マグカップに満たされた薄い緑色の液体は、白い湯気をほわほわと漂わせていた。
「どうぞ、悟浄」
「お、気がきくねえ」
悟浄が八戒の手からマグカップを受け取り、両手で包み込んで暖を取る。
「一段落したら、すぐにシャワーを浴びてくださいね。そのままだったら風邪引いちゃいますよ」
やっぱり悟浄に背を向けて、八戒が言う。悟浄は両手で包み込んだマグカップを肩をすくめて口元に持っていき、一生懸命冷まそうと息を吹きかけていた。
「なー、八戒」
その格好のまま悟浄が呼びかける。
「お前ってさー。24日、ヒマ?」
「…特に予定はないですけど…」
だって、自分はもう、何の予定も必要としないから…
少し低くなった声に悟浄は気付いてしまっただろうか。
「だったらさー、24日は俺、家に居るから、夜、ちょっといいもの作ってよ」
「…分かりました」
分かっているだけで承知はしていない。そう自分に言い聞かせる。
うそをついてしまうことに胸が痛くなるから。
でも、これで悟浄が自分から解放されるのならば…
役立たずを通り越して、負担ばかりかけている自分から、悟浄が自由になれるのならば――――
「八戒」
「なんです、悟浄」
悟浄が、半分ほどに減ってしまったマグカップの中身をじっと見ながら口を開く。
「24日って何の日か知ってる?」
ゆらゆらとマグカップの中身を波立たせて悟浄が言う。
「・・・何の日でしょう?」
首をかしげて八戒が答える。
「俺さー、昨年も、一昨年も、そのまえも、ずーーっとずーーっと、その日がなんなのか、って聞いちゃ忘れ、聞いちゃ忘れしてたんだわ」
カップの表面の波が大きくなっていく。
「さっきさあ、店で言われた。
 24日って、大切な人と一緒に過ごす日、なんだとよ」
マグカップは悟浄の手の中で大きく揺らめき、半分ほどしかないほどのお茶はぐるぐる回って今にも零れ落ちそうになっていた。悟浄はその表面をじっと見ている。
「――――――――え?」
とっさには悟浄の言っていることの意味がまったく理解できずに、八戒は思わず悟浄のほうを見やる。
「八戒」
強く呼びかけて、悟浄はマグカップを揺らす事をやめ、八戒に鋭い視線を向けた。
「お前、ナニ考えてる?」
にらみつける、といっていいだろう悟浄の鋭い視線が、八戒を射抜く。
「――――――――え?」
「いや、ナニ、しようとしてる?」
「ご…じょう…?」
悟浄の紅い瞳には怒りに似た陽炎が揺らめいていた。
その迫力に気おされて、八戒は自分の声帯が自分のものではないかのように感じていた。
頭から、血が音を立てて引いていく。
「ぼく・・・は・・・」
「とボケんな!」
マグカップを机の上にたたきつけ、悟浄が声を荒げる。八戒を向き直り、その紅の視線をまっすぐ八戒の相貌に固定して。
「いえねーんなら言ってやるよ!
『ここから消えなくちゃ』でなきゃ、『存在自体を消滅させなきゃ』…ちがうか?!」
「…そん・・な・・ぼくは・・・・」
声まで蒼白にして八戒はようやく単語を搾り出した。
「何でそんなこと考えるんだよ!そんなに俺は情けない男か?必要ない男か??」
「ちが・・・ごじょ・・・」
八戒の両腕をつかみ、悟浄が激しい口調で言う。
「何が違うんだ?そんなのお前の顔見てたらすぐにわかるぜ。
 ―――雨の夜に、お前が、んなにへらへらわらっていられるわけねーだろ!!!」
「ごじょう・・・ぼくは・・・・」
両腕をつかんだまま悟浄は八戒から視線を外さない。八戒は自分の顔から血の気が引いていることを正確に予想した。
でも、伝えなければならない。悟浄が情けない男でもなければ、必要ない男でもないことを。そんなことを思わせるために自分がこんなくちゃくちゃの顔をしているわけではないことを。
「…あなたの負担に、なりたくないんです」
「…負担…?」
「だってそうでしょう?僕と関わり合いにさえならなければ、あなたはもっと楽に生きられるはずです。僕さえ居なければ、僕がわけのわからないことを言って、勝手に壊れて、あなたをわずらわせることも苦しめることもないでしょう!!」
「・・・ふざけんな!」
悟浄がその手をテーブルに叩きつける。
「だれがいつ負担だなんていったんだよ!勝手に思い込むなよ!!」
「僕はこれ以上あなたを不幸にしたくないんです!」
「ナニが不幸だ!勝手に決めんな、って言ってるだろう!!」
「あの雨の日に僕をひろいさえしなければ、あなたは僕が犯した罪になんか巻き込まれることはなかった!!僕の存在さえなければ、あなたにひどい言葉を投げつける輩なんていなかった!!あんなに傷つけて、あんなに苦しめて―――僕さえ居なければ、あなたがあんな思いをすることはなかったのに―――!!!」
「不幸かどうかは俺が決める!お前に決めてもらうことじゃねー!!それに、そんなんで傷つくほど俺はヤワな男じゃねーぞ!!」
八戒の体をがくがくゆらし、悟浄が胸の中から塊となったそのままの言葉を吐き出していく。
「なんだよ・・・それ。なんだよ。なんだよ!!せっかくお前あんなにきれーに笑うようになったのに。俺のそばで、俺に笑顔を向けてくれるようになったのに、また、勝手に消えるつもりかよ!!…それともナニか、禁忌の子どもは、そんな笑顔を見ていたい、って思うことすら許されないのか?!」
「…ご…じょう…?」
「知らないワケじゃねーだろう?この髪とこの瞳の色の意味を――――――」
横を向いた悟浄のほおに紅い髪の毛がかかりさらさらとこぼれていく。
「血の色だ。呪われた禁忌の色だ。」
傷をさらけ出してそのまま結晶化したような言葉を吐き、悟浄は未だ八戒のほうを向こうとしない。
「――――――――だからって、この髪と瞳を持っているからって、俺は、何かを求めることすら許されないって言うのかよ!!!」
一気に息を吐き出して、悟浄ががくりと頭を落とす。
「なあ…笑っていてくれよ…俺、お前にそんな思いしかさせらんね―のかよ…」
八戒の両腕をつかんだ腕の力がわずかに弱くなった。悟浄の頭は力なく落とされたままだ。
「…お前に、そんなにつらい思いさせたくないんだよ…」
そう言って悟浄はゆるゆると八戒の腕をつかんでいた手を離そうとした。
「悟浄―――」
八戒は離そうとする悟浄の手を取り、そして驚いて八戒を見上げた悟浄にふわりと笑顔を向け、悟浄の頭をその腕の中にやわらかく抱きしめた。
悟浄は何が起こったのか分からないまま、そのまま、八戒の肩に頭を預ける。
「悟浄――――」
もう一度、八戒は悟浄の名を呼んだ。頭上から降ってくる八戒の声がやわらかく悟浄を包む。
「―――僕は、あなたに笑っていて欲しい。僕は、あなたの笑顔を見ていたい。」
そこで、一度言葉を区切り、抱きしめる腕に少し力を込める。
「禁忌だろうが何だろうが、あなたは、あなたです。悟浄。僕は、あなただから、負担をかけたくなかった。負担をかけなければ、あなたが笑っていてくれると思ったから―――」
八戒の肩に頭を預けたまま、これ以上ないというくらい悟浄の瞳は見開かれていた。
「悟浄、あなたは優しいから。優しすぎるから。あなたの優しさに甘えて、甘えきって、それで、ぼくが、あなたの笑顔を奪ってしまう気がして。それが怖かったんです。」
…新しく水をたされてストーブの上に置かれたやかんが、しゅ、しゅ、と再び歌を歌いだした。
「いつだってあなたは、僕に嬉しいをくれる。僕に笑顔をくれる。僕に喜びをくれる。――――僕に、幸せをくれる」
「…は、っかい…?」
悟浄は八戒のその言葉が信じられなかった。八戒こそ悟浄にたくさんのものをくれている。自分が…ナニを八戒に返せているというのだろう?
「あなたが気付かずにくれるから、幸せなんです。
…好きですよ、悟浄。あなたがとても―――。男の人に言うのは照れますけど」
それを聞いたとたん悟浄は、八戒の肩から音を立てて頭を上げ、何もいえずに、本当にこれ以上ないというくらい見開かれた瞳で、八戒を見つめた。
「でも、どうしても口にしたかったんです。悟浄、ありがとう―――。勝手に壊れる、勝手に閉じこもる、勝手にあなたを傷つける、こんな僕に、たくさんたくさん、あたたかいものをくれて」
そう言って八戒は、とてもとてもとても綺麗に微笑んだ。
 悟浄は、何か口に出したくて、それでもまったく言葉を見つけることができずに、でも八戒には今のこの自分の胸にあふれる思いを伝えたくて、他にどうすることもできずに、八戒を強く抱きしめた。
 八戒のこげ茶色の髪が悟浄の頬をくすぐる。八戒の呼気が悟浄の髪にかかる。そして、八戒の細い腕が、悟浄の背をやわらかく抱きしめた。
 触れ合うその体から、もらった言葉以上のあたたかな思いがどっと悟浄の中に流れ込んできた。
 ――――ただ、今、この瞬間がものすごくあたたかい。
 この瞬間が、ものすごく幸せな時間だと言い切ることができる。
 悟浄は、泣きそうなくらいの胸にあふれる思いをもてあまし、抱きしめる腕にさらに力をこめた。
 もっと近くに、八戒の鼓動を感じる。八戒の、指が、髪が、腕が、全てが、今悟浄の手の中にある―――
 覚えず、悟浄は抱きしめる腕を緩め、八戒の頬に手をかけて、そしてその唇に自分の唇を重ねようとした。
「悟浄」
ぽかっと言うかわいらしい音とともに悟浄の頭頂部が殴られる。その音とは裏腹に、かなりのダメージを与えられた悟浄は、恨めしそうに八戒から離れた。
「ちがうでしょう、僕、男なんだから」
苦笑する八戒に、真剣に悟浄が疑問を投げかける。
「何でハグならよくってキスはいけないんだ?」
「ハグは挨拶でするでしょう」
「キスだって挨拶でするだろう」
「そんなロシア人みたいな。エリ○ィンとか、ゴル○チョフとか、あの大男たちが挨拶でキスしあってるところを見て何か嬉しいですか?」
「俺もお前もロシア人じゃないし、見目麗しいからいーーの」
「ナニいってるんですか、もう」
八戒はくるりと悟浄に背を向けて、ふと窓の外を見やった。
「――――雪、降ってますね…」
激しく荒れ狂っていた雨がいつのまにか雪に変わっている。窓から漏れた明かりに照らされて降ってくる雪が五線譜のように夜の闇を滑っていく。
「雨が凍ったやつかな。それとも、さっきまでの雨が雪が溶けたやつだったのかな」
悟浄が八戒の隣に並んで、窓の外をみながら言う。
そして、そこではじめて、ぶるっと身震いし、寒そうに自分の身体を抱えた。
「…悟浄、いいかげんにシャワーを浴びてきてください。本当に風邪引いちゃいますよ」
八戒が、心配そうに悟浄を覗き込む。
その碧の瞳に、絶望の黒い陰が、とりあえずはなりを顰めていることに、悟浄は心のそこから安堵した。

 これから、きっと、雨の夜毎にまた八戒はおかしくなるだろう。
 だけど、八戒がくれたさっきの言葉があるから。
 どんなに壊れかけても、必ず自分が引き戻す。
 八戒の笑顔が見たいから、八戒に笑っていて欲しいから…

「―――これだけ寒いとさ、雪って結晶の形がはっきり目で見て分かるようにふってくるんだぜ」
「悟浄…」
悟浄は笑って八戒に言った。そして、八戒も悟浄に微笑を返した。
「…24日、美味しいものをいっぱい作ります」
「…マジ?――――楽しみにしてるから」

窓の外の雪は音もなく降り積もり、五線譜が、六線譜、七線譜へと変わっていくかのように激しさを増していた。
窓にうつる2つの影は、やがて1つに重なっていた。


―――悟浄が、風邪を引いたかどうかかは、それはまた、別の話である。
 


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