夕月淡く照らす頃
まったくもって進歩がない。
どこまでいっても自分はバカだ。
バカさ加減にあきれて思わず笑ってしまう。
――――手に入るわけなどないことは、拾った瞬間から一万回自分に言い聞かせてきた。
手に入れた、という甘美な夢から醒めた時に、自分が傷つくのはもうたくさんだったから。
それが、いつのまにかときどき、手に入れた、という錯覚が突然ぽこ、と音を立て、泡沫のように胸にあふれてくるようになっていた。
腹を裂かれた碧の同居人は、もともときれいに笑ってみせたが、その笑顔が、悟浄の前ではどんどんやわらかで無防備なもののようになっていく気がしていた。
最初に拾ったときに見せた、きれいな笑顔は冬の笑顔だ。
汚いもの、見たくないものを全て覆い隠してくれる美しく、白い雪の、冷たい壁のある笑顔。
それが、早春の、雪を割って流れる小川のそばに淡い黄緑のふきのとうが顔を出すように、少しずつその壁がなくなって。
嬉しかった。
心底嬉しかった。
理屈なんかはさっぱりわからない。でも、嬉しかった。これ以上ないというくらい嬉しかったのだ。
八戒の笑顔が見られることが、その笑顔の壁が、なくなっていくことが。
八戒は強いと思う。
死んだほうが3000億倍彼にとっては幸せだっただろうに、生きることを選んだ。
己の罪と向きあって、己のために、生きていくという道を。
ともすれば壊れそうになる、実際にはさんざん壊れている八戒だが、それでも、未だ、死は選ばずにいる。
それが悟浄には嬉しいし、少しだけ自分のせいかな、などと思ってみたりした。
でも、それは、全て錯覚。
わかりきっていたことだろうに、多分、八戒の超えてはならない一線に自分は足を踏み入れた。
ある程度開かれていた扉がばたんと音を立てて悟浄の目の前で閉じられた。
自惚れていた。
調子に乗っていた。
それがわかるのはいつも扉が閉じられた後だ。
…本当に、まったく、進歩がない。
欲しいものは欲しいと素直に口に出すことの愚かさは、痛いほどこの身に染み付いているのに。
求めて、求めて、欲しくて、欲しくて、たまらなかった笑顔はまたこの手をするりと抜けてどこかに消えていってしまった。
「ほんっとーに、俺って、バカ……」
冬の笑顔の余韻を残したままの酒場のドアをボーっと見つめて、悟浄は一人つぶやいた。
表面上は何ら以前と変わりない生活を二人は続けていた。
相変わらず悟浄はゴミの日も覚えなければ朝も決して起きてこないし、八戒は新しくはじめたアルバイトに慣れるのに必死だった。
「悟浄、僕、今日はちょっと遅くなるかもしれません」
「ん?あー…そう、じゃ、俺も稼いでくっかな―」
何の淀みもなく交わされる二人の会話。
それでも、八戒の笑顔はやっぱり冬の笑顔のままだった。
心の表面すらも、見えないような、冷たい、雪のような、きれいな笑顔。
…そんな笑顔で自分の気持ちを全て隠してしまわなければ。
ものすごく努力を要するその作業を、何とか八戒はこなしてきた。
悟浄が好きだ。
でも、そう思ってはいけない。
それを毎日繰り返す。
こんな自分を花喃が見たら一体どう思うのだろう?
あんなにきれいで、あんなに優しい、花喃を苦しめ、傷つけ、汚したまま、死なせた自分が、あっという間に「特別に」好きな存在を意識した、なんて。
「好き」という気持ちは、そこに存在するだけで胸をあたたかくする。
どうでもよいことに対して、感情がどんどんあふれるようになってくる。
例えば食器を洗うこと。
それは義務ではなくなった。
悟浄がいるから、食事を作ることも、洗濯をすることも、食器を洗うことも、ゴミを出すことも、掃除をすることも、全て、全てが自ら「やりたい」と思うことになった。
少しでも美味しい食事を作って、悟浄に「ありがとう」といわれたい。その笑顔が見たい。
きちんと洗濯されたシーツの感触に、悟浄が「気持ちいい」というのを聞きたい。その笑顔が、見たい。
悟浄の笑顔が見たい。笑っていて欲しい。
…でも、自分にはそんなことを思う資格はとっくにないのだ。
惨めに死んだ花喃。
そのために自分に殺された数え切れない咎なき命。
自分のとった行動に後悔はない。
自分は殺人者だ。罪人だ。
それらは全て、花喃を救うため。花喃のために、自ら、そうなることを選択した。
…後悔は、ただ、自分のとらなかった行動だけ。
なにを差し置いても、花喃の危機を察知することができなかった自分、だけ。
のうのうと生き延びて、強くて優しい周りの人に甘えて、あたたかい感情をもらって、自分の存在が周りにとって必要だ、なんて自惚れて。
「じゃあ、僕、出かけますね」
「ああ」
自己嫌悪のための自嘲の笑みを唇の端に浮かべて八戒はアルバイトへと出かけていった。
そんな八戒の笑顔を見て、悟浄もやはり自嘲のため息をつく。
その、冬の笑顔を見る度に、自分のバカさ加減にあきれ果てる。もしかしたら、次は、違う笑顔かも、などという幻想を抱く自分がどんなにバカか、悟浄にはよくわかっていた。
ハイライトには今にも落ちそうなくらいの灰が先端でぐらついていて、それに気づいた悟浄は乱暴に灰皿にそれを押し付け、自分も上着を引っ掛けて、いつもの酒場へと出かけていった。
「いやー、よく働いてくれて助かるよ、八戒」
大将に声をかけられたのは、9時を少し回って、ようやく客が一段落したときだった。
さすがに大将は「玄奘三蔵様お立ちよりの店」という看板は出さなかったが、口コミで客は集まり、高級寿司屋(つまりぐるぐるまわっていたりしない寿司屋)のくせに、結構店は繁盛していた。
さらに最近は、明らかに八戒目当てと思われるお金持ちが服を着て歩いているような有閑マダムもちらほらと店にきていた。
したがって八戒がほっと一息つけるのも、この時間になってからだ。
八戒の仕事は多岐にわたる。
お茶とお絞りをだし、注文を取り、大将に伝え、その間に味噌汁の具合を見たり漬物の用意をしたり、大量の食器を洗ったり焼き物の準備をしたりする。
そつなく何でもこなすことのできる八戒は大変重宝がられ、週ごと、月ごとに「入ってくれ」と頼まれる時間も増えてきた。
「腹減ったろ、とりあえずこれでも食べててくれよ」
大将は、あっという間に烏賊をさばくと、やっぱりあっという間に肝と身と、味噌と葱を混ぜ、温かなご飯にかけて八戒にだしてくれた。
「…ありがとうございます」
八戒は見たこともない得体のしれないその食べ物に(正直かなりグロい外見だった)僅かながら戸惑いの表情を見せたが、意を決して食べ始めた。
「美味しい…」
「あたりまえだろう」
そう言って大将は笑い、なじみのカウンターの客と酒を酌み交わした。
「悟浄に、そいつをはじめて食べさせたときも目を白黒させてたぜ」
「そうなんですか…」
大将の言葉に、少し八戒は目を伏せた。悟浄も、同じものを食べていたのだ。
「何、そこの新人さん、悟浄の知り合いかなんか?」
カウンターの客が、八戒をしげしげと見ながら質問を発した。
「八戒、っていうんだ。悟浄の家に住んでるんだけど、あの悟浄にはちょっともったいない同居人さんでなー、家事のカミサマみたいな存在だぜ」
「へー、そうなんだ。…ああ、そういえばうちのカミさんが言ってたな。『最近の悟浄は、ちゃんと、ゴミの日覚えてる』って。八戒さんのおかげかな?」
大将とその客は顔を見合わせて大笑いし、八戒は表情の選択に困って、あいまいな笑顔をむけた。
「そうそう、八戒さん、あんた悟浄と一緒に暮らしてるんだったら、悟浄の兄ちゃんの名前覚えてっかな―?」
お猪口の酒を一口で飲み干すと、そのカウンターの客は急に何かを思い出したようで、八戒に向かって話し掛けてきた。
「……え?」
「どうしたんだ。急に?」
「いやさ、どーしても名前思い出せないんだけど、何となーく悟浄の兄ちゃんぽい名前のやつがさっき共同井戸の利用申し込みに来てさー、ちょっと気になってんのよ」
空いたお猪口に大将は酒を注ぎながら、話の続きを促した。
「なんて名前だ?」
「うー…ん、あ、そうそう、『胡爾燕』、っていってたぜ」
「なんだよ姓が違うじゃねーか。話にならんな」
「大将、しらね―のかよ。悟浄の兄ちゃんてな腹違いでさ、なんだか悟浄はその兄ちゃんの母親にひどい目に合わされてたらしいぜ」
立て続けに酒をあおり、滑らかになった口が悟浄の過去を次々と並べ立てていた。
全て、八戒の知らないものばかりだった。
悟浄にお兄さんがいたこと。
そのお兄さんとは腹違いだということ。
お兄さんのお母さんと同居していたこと。
そのお母さんに、ひどい目に合わされていたこと。
自分は禁忌の子供だ、と悟浄は言った。
きっとそのせいでたくさんたくさん傷ついてきたであろうことは八戒には少しだけ想像ができていた。
しかし、おそらくそのせいで、母親にまで疎まれていた悟浄は―――
最初から母親など知らなかった自分と、母親を知っていてもその存在に疎まれていた悟浄。
あんなにスキンシップ好きで、あんなに強くて、かなしくて、優しい悟浄のそんな過去は……
「―――で、八戒さん、名前知ってる?」
カウンターから客が話し掛ける。
「あ、すみません…僕も、知らないです…」
「仕方ね―なー。…ま、いいか」
そして、それっきり客は話題を変え、大将と二人でさんざん飲んで帰っていった。
「悟浄…」
なぜだかよくわからない感情に胸を支配され、八戒は小さく悟浄の名前を呼んだ。