夕月淡く照らす頃
カラン・・・と頼りない音がして、酒場のドアが開いた。
「あー、いらっしゃいませー」
間延びした声でマスターが客を迎える。こんな挨拶は常連にしか返さない。マスターはその客の顔を見た後、悟浄のほうを見た。
客の足は、悟浄の紅い髪を認めた時点で宙に止まり、そのまま店の中に入るかどうか躊躇していた。気配に悟浄が振り向く。
「…何だ、ペンキ屋じゃん。ナニ、また俺に負かされに来たワケー?」
「うっ…ち、違う。今日はただ――――」
「ふ――ん、ちょっとは勝っとかないと、愛する妻のもとへ帰れないってか?―――ま、俺に挑戦しようってのが1億年早いと思うケド?」
嫌味な口調で嫌味を言うだけ言ってから、悟浄は興味なさそうに再びグラスを傾け始めた。
ペンキ屋は顔を怒りで真っ赤に染めていたが、言われていることは全く図星である上に、もう2度と悟浄と勝負する気にはなれなかったので、代わりの相手をと、店内をぐるりと見回した。栗色の髪が目に止まる。
「おい、マスター」
カモ、を見つけたと言わんばかりの声で、ペンキ屋がマスターを呼ぶ。
「あの客、見たことね―客だけど、何かヤクザ者?」
「…いや、善良な一般市民だが」
マスターの返答にご満悦の表情で、ペンキ屋は何度も深くうなずいた。
「そーかそーか、よーーーし、そしたら今夜のお相手はあいつだ!」
「こら!ちょっと待て…!おい!!そいつは―――」
マスターの静止を振り切って、ペンキ屋はその栗色の髪を持つ窓際の席に陣取った客のところに喜び勇んで走っていった。
「おい、お前見ね―顔だが、新顔か?」
「……一昨日この町に越してきたところだ。で、俺に何の用だ?」
「いや、お前、結構イけてる顔してっからさー、ちょっと遊んでもらおうと思ってさ」
ペンキ屋の言葉に少し目を細めてその栗色の髪の男は顔を上げた。
「…ほほう、この町では新顔に喧嘩売るのが挨拶になってんのか?」
「…ま、喧嘩だと思うんならそーとってもらってもかまわね―けどよ。俺がいってんのはコイツ」
そう言ってペンキ屋は、胸ポケットからカードを取り出した。
「…何だ、賭博か」
栗色の髪の男がカードを一目見るなりつぶやいた。
「一勝負どうだ?」
ペンキ屋はしてやったり、という表情で、嬉しそうにたたみかける。
「いいだろう。…ただ、その前に名を名乗れ。逃げられたりしちゃー、たまんねーからな」
「…フン、新顔のくせに俺から名乗らせよ―ってのかよ。い―度胸だ。貴様から先に名乗れ」
「……子供の喧嘩みたいなことはくだらないから嫌いだ。名乗ればいいんだろ。俺の名は―――」
あわてて制止しようとしたマスターの努力は空しく宙に消えた。その栗色の髪の男は、店中に響き渡る声で、自らの名を名乗った。
「胡爾燕だ」
悟浄が、その単語にはじかれたように顔を上げた。
椅子から、少し腰を浮かした状態で、上半身をひねってその声の方向を見た。
ペンキ屋も、マスターも、その周辺にいたこの町に古くから住んでいた連中は一様に目を見張り、ある者は飲みかけのグラスを取り落とし、またある者は思わず席を立った。
もとからその栗色の髪の男の名前を知っていたごく少数の人間は、天を仰ぐか、手でその顔を覆った。
渦中のその男だけが、場の状況のあまりの豹変振りに目を白黒させて驚いていた。そして、カウンターに座っていた、背の高い、紅い髪の男が自分を凝視していることに気付いて、視線を向ける。
悟浄は、しばらくその栗色の髪の男を瞬きもせずに、凍りついたような表情でにらみつけていたが、視線を向けられたことに気付くと、ふ、と視線をはずし、目の前のショットグラスをわしづかみにした。
声をかけるのはためらわれて、周りは息を詰めて悟浄の次の行動を待っていた。
悟浄の右手は力任せにショットグラスをつかんでいて、その手は小刻みに震えていた。
「…ちげーよ……」
低い声が一声、悟浄の口から漏れた。
それを聞いた周囲から、安堵と失望の混じった空気が立ち上る。
「……兄貴なんかじゃ、ねーよ」
……悟浄の右手のグラスが、ぐしゃ、といやな音を立てて砕けた。
「なんだよ、てめーら、全員知ってやがったのかよ!!」
割れたグラスの破片が悟浄の右手をぱっくりと切り裂き、血を吹き出させていく。
「…は、そーかよ、てめーら、かわいそーな悟浄さんによ―やく現れた、生き別れのお兄様をこんなチャチな演出で俺に見せたかった、ってワケだ」
ものすごい勢いで、悟浄の手からは血が滴り落ちている。床にはすでに小さな血の池ができていた。
「同情、ありがとよ。今までかわいそーな悟浄さんをそうやって、てめーらは優越感に浸った目で見守ってくれてたわけだ」
悟浄の声が、周囲に向けてたたきつけられていた。
「…ああ。そうだよ。俺には腹違いの兄貴がいたさ。俺は、兄貴の母親に引き取られて。何度も何度も殺されそうになった。今度こそ、本当に殺される、って時についた傷がこれだ」
そう言って悟浄は左頬が隠れるまで伸びてきていた髪を割れたグラスの破片で乱暴に切り落とし、その傷を衆目にさらした。
重い空気が淀んだまま幾ばくか時間が流れる。
カラン・・・
控えめな音を立てて酒場のドアが開かれた。救われたように皆そちらを見やる。
現れたのはこげ茶の髪と碧の瞳を持つ、背の高い、悟浄の同居人であった。
「…あ…れ……?」
半瞬で空気がおかしいことに気付き、八戒が口篭もる。悟浄はおそろしい勢いで八戒を睨みつけ、立ちすくんだままの八戒がいる酒場の入り口へゆっくり足を進めた。
「…同情かよ?」
八戒の前まで来た悟浄が低く押し殺された声を吐き出した。
「え…?」
「…どーせお前も知ってたンだろ?だからここに来たんだろーが!!」
「…ご…じょ、何、言って……?」
「とボケんな!!!」
悟浄がその血だらけになった右手をドアに叩きつける。八戒は大きく目を見張り、何も言えずにただ悟浄を見つめる。
「よーーーく分かった。お前がどーして俺のところに転がり込んできたのか。どーしていつまでたってもここに住んでいるのか。いっつも笑って、その笑顔の下で、かわいそーな悟浄さんを、心のそこから哀れんでくれてたんだな」
鋭い刃を持った固形物のような台詞を八戒に叩きつけて、悟浄は酒場の外へと消えた。
力任せにたたきつけられたドアは抗議の悲鳴をあげていたが、八戒の耳には何の音も入ってはこなかった。
気づかないうちに、膝が崩れて、八戒はぺたんとそこにへたり込む。
「…まあ、いつかはこうなったわけだし」
マスターが、グラスの破片を一つ、つまんで持ち上げながら言った。
「八戒さん、悟浄の兄貴の名前、知ってたか?」
「…いえ、さっきまで知りませんでした」
「じゃあ、悟浄の生い立ちは?」
無言で首を振る八戒に、そうだろう、という表情をして、ため息をつきながらマスターが言う。
「……俺たちも、表面上は知らないことになってたんだよ」
破片を電球にすかし、そしてその破片の向こうの視界に八戒を入れて、マスターはもう一度ため息をついた。
「かなり前のことだ。1度だけ、悟浄が前後不覚に酔っ払って、そしてそのまま、本当に一言、兄貴の名前を呼んだことがあったんだ。
…それはかなしそうに、それは胸がつぶれそうな声で、一言『爾燕』…って呼んだもんだから、その兄貴と、何かかなしいことがあったことぐらいは俺たちにも分かった」
周囲の人間たちも、うなずいている。
「だから、俺たちは、悟浄の前ではそんなこと知らない、って思うように決めたんだ。…だが、あまりないだろうと思ってたその兄貴の名前とそっくりの名前のやつが、こともあろうにこの町に越してきちまった」
状況がつかめなかった栗色の髪の男が、ようやく少し納得した表情で顔を上げる。
「…いつかは、結局こうなっただろうよ。もうちょっとマシな演出方法もあっただろうがな」
「…何だよ!俺、知らなかったんだよ!!」
ペンキ屋が、顔面どころか声まで蒼白にして必死に主張する。
「演出がマシなだけで、結論はかわりゃしねーよ」
マスターがはきすてるように言った。
「……それじゃあ、悟浄は……」
「残念ながら、完全に誤解だ。まあ、悟浄がそう思うのも無理はないが」
肩をすくめてそう言ったきりマスターは沈黙し、周囲もそれに倣って押し黙りつづけていた。
「悟浄…」
八戒はつぶやいた。
自分がひどく小さい人間に思えるのはこんなときだ。
いつだって自分の都合を優先して。自分のことばかり思いやって。自分は花喃を失ったが、自分と同じように大切な人を失った人間は世の中にごまんといるのだ。
そう思ったからといって自分の中の虚ろが満たされるわけではない。ただ、世の中の不幸を一身に背負っているような気分になっていた自分の卑小さにあきれただけだ。
悟浄の性格を考えればすぐに理解することができたはずだ。
―――決して誰にも言うわけがない。自分のことを。そして、大切な、大切な兄のことを。
それを、勝手に、悟浄から避けられている、なんてくだらないことを思い込んで。
町の人間が、悟浄の兄のことについて何か知っていたとすれば、それは完全に事故だろうし、あれほどまでに知らなかったことにしておくように念を押されるわけもない。事故だからこそ、町の人間も、その事実を知っているということをひたかくしにしようとしていたのだろう。
…自分だけ、勝手に、ぐるぐるまわっていた。
自分のこころにだけ氷を張って。自分のこころだけ、守って。必死になって笑顔を貼り付けて。
そんな自分を悟浄はどんな目で見ていたのだ?
自分を見るたびに、ため息をついて。唇を僅かにゆがませて。
それでも悟浄は自分を追い出すことはなかった。
変わらず、そばにいることを許してくれていた。
…それは、悟浄の優しさ。悟浄の強さ。自身が傷つくことも厭わず、八戒から居場所を奪ったりしなかった。
そして、それは、悟浄の孤独。
傷ついたこころを独りで抱えていた、悟浄。
そんな悟浄を傷つけて。
自分だけを守って。
……あれほど、悟浄に負担をかけたくない、などといっていた自分は、同じことを結局繰り返している。
悟浄に、伝えなければ。
許して欲しいとか、そんなことはどうでもいい。
決して、同情などではないことを。
言葉にしなければ、絶対に伝わらない。伝えなければならないのだ。
「…僕、悟浄のところに、行きます。行かなきゃならないんです」
そう言って酒場の出口に向かった八戒は、カラン、と音をさせてドアを開くと、少し足を止め、ゆっくりとマスターを振り向いた。
「趙量さん、教えてくれて、ありがとうございます」
ぺこりと頭を下げて出て行く八戒を、マスターや、周りの人間たちは、祈るような表情で見送った。