空に掲げる

 …一切の迷いを打ち殺すかのような曇りのない声。

 読経、と呼ばれる行為が、本当はこんなにも意味があるのだとはじめて知ったのは、自ら右目を抉り出したすぐ後のことだった。

 何もかも全てを失った。

 最愛の人も、その人と暮らした家も、住んでいた村も、住んでいた村の隣人も、右目も、名前も、そして人間であるということも。

 全て、全てを失った。もう自分の中には何も残っていない。空っぽの、命の、残骸。

 それがなんだか、あの読経の声を聞いたとき、その残骸の中に何かが音を立てて流れ込んできたように感じた。

 後から知った。やけに偉そうだとおもったその金髪紫眼の持ち主は、態度に見合った「三蔵法師」という称号も持っていた。
 神の座に近きものといわれるその人間が、自分を連行し、神だか仏だかよく分からないがそう呼ばれるものが、自分を裁くところまで立会い、自分の名前を変えて、自分に生きることを突きつけてきた。

 ただ、裁かれさえすれば、きっと望みどおりの死を迎えられると安堵したのに。

 ただ一言、その金髪の持ち主が自分に向かって告げた言葉。

「お前が死んでも何もかわらない」

 …ああ、確かにそうだ。その通りだ。死んでも、何もかわらない。死んだ人間は、生き返りはしないのだから……



「八戒」
 新しい名と自分を結びつけるのに少し時間がかかり、ゆっくりと振り返ると、その黄金の輝きを持つ人物が戸口にもたれて立っていた。
「三蔵……」
 確か自分は立ち入り禁止区域に監禁されていたのではなかったかと思い、すぐに、この最高僧の持つ権力という力の巨大さに思い当たり、小さく苦笑した。
 連行されてからすでに1ヶ月がたっていた。
 裁きの答えが出てから更に1週間が過ぎている。
 それでもなかなか周りの状況を把握できない自分が、八戒にはなんだかおかしかった。三蔵はここでは何をしても許される人物だと、分かっているのに、何かとんでもない行為をするたびに最高僧というところまで思考をめぐらせなければ納得できない自分は、こんなに物覚えが悪かったのだろうかと自嘲する。
 苦笑された方は憮然とした表情で、法衣の袖をまさぐり、煙草を取り出して火をつけた。
「身体の方はどうだ」
 その部屋にたった一つあるとてつもなく小さくて高い窓から午後の陽射しが差し込むのを見ながら、三蔵が口を開く。
「おかげさまで、大分順調です」
 まだかすかに違和感の残る右目と、こちらはもう完全にふさがった腹の傷と、両方に、三蔵は完璧な治療を施した。
 こんな罪を犯した自分に、こんな汚れた身体に、精巧に作られた義眼をつけ、開いてはくっつくをくりかえした醜い腹の傷が最小限になるように、手はずを整えた。
 どうして、こんなことをする必要があるのだろうか。
 どうせ、すぐに死ぬのに。
 技術と、金と、時間の浪費にしかならないことをこの金髪の、現実家はやってのけてしまった。
「それならいいんだ」
 そう言って、煙をふうっと吹き出すと、三蔵はやはり戸口にもたれかかったまま小さくて高い窓を見上げた。
 何時の間にか雲が空を覆い尽くしていたようだ。高い窓からは光が差し込まず、部屋の中はまるで夕暮れをすぎたかのように急激に暗さをましていた。
「…雨になるかもな」
「…雨、ですか」
 視線を床に落とし、ぶっきらぼうにそう言った三蔵のその単語を八戒は繰り返した。

―――急激に気圧が下がり、大気が湿り気を帯びてくる。
不快な感覚が、ざわざわと背骨を這い上がってくる。知らず八戒は、両手で自分をかき抱きその不快感を自覚しないよう硬く目を瞑ってゆっくりと頭を振った。
 それでもその感覚―――たとえようもない、身体のそこから全てがめくれていくような感覚―――は、八戒の身体と、そして心を、加速度的に侵食していった。

     ざああああああ

 突然の雨音が、その高い小さな窓をたたいた。あっという間にその音はひどく大きくなり、部屋中に雨の存在を響かせる。
 振り払っても、振り払っても、雨の音は八戒にまとわりついてはなれない。

 長安に、雨の音は本当に珍しい。本来ならば恵みの雨として歓迎されるべきものであるのに、それが八戒にとっては苦痛をもたらすものでしかなくなっていた。
 いつから、こんなふうに雨を厭うようになってしまったのだろうか?

 子供のころはそうではなかった。
 孤児院を出たときもそうではなかった。
 ひどくあたたかく、幸福な時間もそうではなかった。
 ―――――あれは、そう、あの赤い―――――血の……

 悪寒が身体の中から沸き起こり、座っていられなくなる。
 いやな汗がいくつも浮かび、全身の血はどこかに音を立てて引いていってしまった。
 目の前に砂が流れていくかのような、モノクロームのノイズの混じった視界。
 聴覚だけが異様に鋭く、雨の音だけを拾っている。

「…通り雨だな」
 戸口にもたれ、不機嫌な顔をして煙草を吸っていた人物は、ゆっくりと体を起こし、八戒のほうへと歩きながら言った。
 その声がする方向を八戒は見た。雨の音しか拾わなかった耳が拾った、雨の音ではない音。
 そしてその砂が流れているかのような八戒の視界に、黄金の輝きが飛び込んできた。
 
―――――そこだけ、空気が違う。
 まばゆいばかりに光り輝くその髪は、そのまま持ち主の心の強さを表しているかのようだった。
 内面の強さを、強烈なまでに主張するその金色に、八戒は、瞬間、魅入られた。

「どこか痛むのか」
 その金色の持ち主が口を開く。
 なぜ、こんな罪人にいつまでも関わっているのか、その様子が少しおかしくて、苦しそうに八戒は、かすかに唇を上げて笑った。
 一応世の人々から「最高僧」として崇め奉られている彼には、素行がどんなにおかしくとも、やはり慈悲深いところがあるようだ。
 仏道は、不殺生、だと聞いたことがある。
 できうる限り残酷に殺して欲しかったのに、生かされたまま、情けまでかけられている自分がひどく八戒には惨めに思えた。

 そんな八戒の様子などまったく無視して、三蔵は八戒のそばまで歩いてきた。その、白く、綺麗な指の背が、八戒の額に当てられる。
「熱があるな」
 まったく抑揚のない口調で、他人事を他人事のように言う三蔵に、思わず八戒は口を開いた。
「大丈夫ですよ…何でもありませんから」
 そう言って、言外に三蔵との間の高い壁を主張する八戒を、更にまったく無視して、三蔵は八戒のベッドの縁に腰掛けた。
「そんな寝言は大丈夫そうなツラをしてからいいやがれ」
 短くなったマルボロを乱暴に灰皿に押し付け、法衣の袂から新しいものを1本取り出して、三蔵は火をつけた。
「本当に、そんなに痛みませんから……」
 一人にしておいてください、と続けるはずだった言葉を八戒は飲み込んだ。
 
 その誇り高い金髪の持ち主の、何者にも決して指図されない高貴さを汚すような気がしたのだ。

 きっと、自分が生きたいように生きられる、そういう強さをこの最高僧は持っているのだろう。
 好き勝手に生きるためには強さが必要だ。
 周りに流されていればそれなりに楽に生きられる。流れに足を踏ん張って、自分の思う方向へ導くのはとても力の必要なことだ。
 それを、きっと、この金色の存在は、いとも簡単にやってしまえるのだろう。
 自分にはない、そんな強さを持つ人物を、八戒はしばらく見つめていた。

「雨、そろそろ上がるな」
 ベッドの縁に腰掛け、ゆっくりとマルボロをくゆらす三蔵の表情が、少しだけ明るいものに取って代わられた。その微妙な変化に八戒は何か引っかかりを感じた。雨が上がることが、この最高僧にとって、表情を明るくするだけの価値があるものなのだろうか…?
「雨が、上がるんでしたら…大丈夫ですから。本当に、もう」
 つい、声に出してきいてしまいそうになる自分を必死に押しとどめ、とにかく三蔵との壁を高く堅固なものにするために、八戒は言葉をつむいだ。
 …そんなことをきいて一体どうしようというのだ。雨が上がることを喜ばしく感じる人間がいることを確認して、安心でもするために?こんな罪に汚れた自分が。いまさら何を求めているのだろうか?
「雨は、俺も好きじゃねーんだ」
「え……?」
 思わず八戒は三蔵を見上げた。
 先ほどとは少しもかわらないその横顔は、確かに俺「も」と言った。俺も、好きではないのだ、と。
 その助詞によって含まれる人物としては自分以外に思いつくことのできなかった八戒は、その最高僧の横顔をまじまじと見つめてしまった。
 この黄金の輝きを持つ人物に、全てを見透かされているような気がした―――――


「さんぞーっ、さんぞーーーってば!!」
 どたどたどたと大きな足音を響かせてやってきた存在に、部屋のドアが、制止される間もなく勢いよく開かれた。
 部屋の中に三蔵の姿を認めて、その金色の瞳を持つ髪の長い少年は、太陽が笑ったかのように満面に喜色を浮かべた。
「三蔵、急にどっかいっちゃうんだもん。俺、めっちゃ探したんだぜ―……あれ?八戒、調子悪いの?」
「煩い!サル!!いい加減にしろ!」
 こめかみに青筋を立て、すぱあん、と勢いよくハリセンを振り下ろす。
「いって―な…何だよこの暴力タレ目!雨ふってっから、俺急いで三蔵探したのに」
 ぎゃいぎゃいといいたいことを主張する、その、三蔵の黄金を一身に集めて反射させることのできるような少年を、八戒は、少しうらやましい、と思った。そしてそう思ったことを自覚した瞬間、自分自身のその思考に驚きの目を見張り、そのまま固まってしまう。
 生きたい、などとは毛頭思わないのに、その「生きる」ということに対して微塵の疑いも持っていない存在が、うらやましいだなんて……
「…どしたの、八戒?」
 固まってしまった八戒を、大きなまるい金色の瞳が覗き込んだ。はっと我にかえるまもなく、悟空の手がベッドに横たわったままの八戒の前髪をかきあげ、その小さな額が、八戒の額に、こつん、とくっつけられた。
「……ご、くう……?」
 その行為の意味がまったく分からずに、八戒は更に固まって動くこともできずにいた。
「…八戒、調子悪りーんだろ?そーいうときはさ、こーやってやってもらうと、すぐに元気が出るんだぜ♪」
 額をくっつけたまま、悟空が嬉しそうに言う。
「俺、前に、三蔵にこれやってもらったら、すぐに元気になったから間違いないって」
 そう言ってにぱっと破顔したままの悟空と、三蔵を交互に八戒は見上げた。
 三蔵は、少してれているのだろう、不機嫌な顔をしてそっぽを向いている。その様子がおかしくて、八戒は自然と笑顔をつくった。
「あ、八戒笑ったー。笑ってる方が、絶対イイって♪」
 そう言って自分も笑い、笑いながら悟空は八戒の額から自分の額を離した。―――がはやいか、そこに三蔵のハリセンが飛ぶ。
「くだらね―こと言ってんじゃねえっ!このバカ猿!!」
「くだらなくなんてないじゃんか!三蔵がこーしてくれたとき俺すっげー嬉しかった・…うわっ?!」
 愛用のS&Wの安全装置をはずす音がして、悟空はあわてて部屋の外にすっ飛んでいった。
 その三蔵の背に、八戒が笑いを押さえきれない声が聞こえてきた。明らかに照れ隠しとしか思えないその行為に、くすくす、と笑っている。その声が、先ほどまでの八戒とは違う声であることに、三蔵は安堵のため息をついた。
「三蔵、聞いてもいいですか?」
「…くだらね―こと聞いたら殺すぞ」
「くだらないから、殺してくださって結構ですよ。―――ほんとに、悟空にああやって、こつん、ってやってあげたんですか」
「……」
 沈黙が肯定を意味することを八戒はよく理解できた。そして、その状況を想像し、やっぱり自然と笑顔をつくった。
 絶対の信頼を三蔵に寄せる悟空。三蔵の輝きを集め、自分の輝きにかえることができる存在。
 そういう存在になれるわけはないことはとっくに承知している。

 自分の両手は罪に汚れている。
 これから先、誰にかわってもらうことも、その罪を消し去ることも決してできはしない。
 そんなことはいちいち確認するまでもなく分かっている。
 ただ、八戒は、その輝きを、見てみたい、と思ったのだ。
 強さを秘めた金色の輝きが、更に輝きをましていくであろうところを。

「…やっと、大丈夫、って面になったな」
 三蔵が八戒を横目で見やり、もう一度ドアの方を向き直って3本目のマルボロに火をつけながら言う。
「…そうですねえ、あなたに、こつん、ってやってもらえるまでは死ねませんねえ…」
 からかう八戒に、ものすごくいやそうな顔を向け、それでも黙って三蔵は煙草の煙を立ち上らせていた。
 悟空が、ドアの陰から中の様子を伺っている。

 それを見て、八戒はもう一度笑った。

 先ほどの三蔵の言葉どおり、雨は上がっていた。その部屋の小さな高い窓からは再び午後の太陽の光が降り注いでいた。八戒は、右手を顔の前に上げ、その窓から降り注ぐ光と、ベッドの縁に腰掛けている、黄金の髪に手をかざした。
 死ぬことが、少し、怖いことのように、今の八戒には思えた。

 

 

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