月は東の空に出て

 家を出るときにはきれいな夕焼けを見せていた空が、雨を降らせるなどとは思ってもみなかった。
 気がついたら大粒の雨が酒場の窓を叩いていた。
 まだゲームの途中だったが手に持ったカードを叩きつけて、転がるように店を出る。誰かが何かをわめきたてていたが、そんなことは知ったことではない。

 雨の夜を重ねる度に八戒は少しずつ壊れていく。

 勿論本人はそう意識しているわけではない。

 それでも、あの忌まわしい事件から日がたつにつれ、八戒の中で記憶が削り取られ、印象的なシーンばかりが鮮明に残り、記憶の再構成が行われていく。八戒の心はまるで圧力をかけたガラスのように、みしみしと音をたて、たわんでいく。
 その心は臨界点に達した時点で、こなごなに砕け散ってしまうだろう。
 今まで八戒の心が壊れなかったのは、一度こなごなになったその破片の再生が、ごく僅かしか行われなかったからである。
 最愛の人を失った八戒の心に住むのは、その、最愛の人だけだ。
 悟浄がそこに住んでいるなんてことはとても思えない。
 ただ、悟浄には、ごく僅かだけ、八戒の注意を外界に向けることだけはできているような気がしている。
 その部分だけ再生された、八戒の心がまた、壊れようとしているのだ。

 雨の夜、八戒の瞳が自分をうつし出すことはない。
 
 雨の夜、八戒の唇が自分の名を紡ぎだすこともない。

 八戒が見ているのは虚空に消えたその最愛の人の笑顔であり、八戒が呼ぶのは、その世界の誰より大切だった人の名前だった。

 それを聞く度、その名前を聞く度、悟浄の心は何かに蝕まれていく。
 どんなに求めても、雨の夜の八戒は決して手に入らないのだ。

 それでも目の前で苦しむ碧の同居人を見ているのはつらい。

 必死で、絶望の淵へ雪崩打つ自分の意識をおしとどめようとする八戒を、少しでも楽にさせたくて、悟浄は、強く八戒を抱きしめた。八戒の耳元で、八戒の名を呼びつづける。
 雨の中を帰ってきた悟浄の冷えた体が、八戒をきつく抱きしめる。
 悟浄の紅い髪から、ぽたり、と雨のひとしずくが床の上に落ちた。
 
 

 ごじょう、と言う形に唇は動くのに、声が出ない。声帯機能はまるで麻痺してしまっているかのようだ。

 悟浄が自分を呼んでくれている。
 悟浄が自分をきつく抱きしめてくれている。

 それなのに、口から出るのは、声になるのはただ花喃の名前ばかりだ。

「か…な……」(ごじょう)
「八戒、大丈夫か?しっかりしろよ」
「あ……」(ごじょう!)
「八戒」
「………」(ごじょう!!)

 悟浄の名前を呼びたいのに、うまく声が出せない。目の前にいる悟浄を呼びたいのに、唇は動くのに、声が出ない。 

 傘からはみ出していたのだろう雨にぬれた悟浄の髪の湿った匂いが八戒の鼻腔をくすぐる。

 声が出せない自分がもどかしくて、頭の中の右と左でちがうことを考えている自分がいて、それがそれぞれ思考を逆方向に引っ張っている。絶望の淵へと誘う方向は、いとも簡単に八戒をその中へと落とし込む。ほんの僅か針がそちらにふれれば間違いなく自分は二度と悟浄の名を呼ぶことができなくなるだろう。そしてその反対の方向に自分を持っていくようにするためには何も考えられなくなるくらいパワーが必要だった。
 いつからこんな風になってしまったのだろう。
 時が経つにつれ、傷はいえるものではなかったのか。
 時が経つにつれてますます雨が駄目になっていく一方だ。正気を保っていられるかどうかなど、そんなことを思わなければならなくなるほど雨の夜に自分は壊れていたのだろうか。
 …自分で自分をどうすることもできなくなって八戒は、目の前の悟浄の背中に夢中で手をまわした。
 悟浄の名前を呼べないのならば、せめて、せめてその存在をこの手で感じられるように――――きつく、きつく。



 八戒に名前を呼んでもらえるなんて全く思ってもいない。
 何度確認しても、八戒の口から漏れるのはその最愛の人の名前だけなのだから。
 何回確認したら一体自分は気が済むのだろうか。何度繰り返し同じことを思わなければ自分の思考回路が不毛なまでに名前にこだわらなくなるのだろうか。
  分かっているのに。
 八戒は愛しいひとの名前を呼んでいる。
 手に入らなかった分、空白の時間抱きしめられなかった分、自分を代わりに抱きしめるのだろう。

 それでも雨の夜に隣にいることを許してくれているくらい自分は八戒の近くにいると考えてもよいのだろうか?
 それは半分は事実だが、半分は、八戒は実は雨の夜にはそばに誰がいるかなどとは認識していないだけなのかもしれない。
 無防備にさらされた首筋や、緩められたシャツからのぞく胸元や――――――
 悟浄だから、安心しているというわけではないだろう。
 誰かに対して警戒することも忘れるくらい雨の夜は八戒にとっては鬼門なのだ。

 ただ、そのあまりの艶っぽさに悟浄は固く目を瞑る。

 チャンスはいくらでもあると思ってよいのだ。何も今こんな状態の八戒にナニを――――自分は考えているのだろう?
 ちゃんと自分を見ている時間に、ちゃんと八戒が名前を呼んでくれる時間に、ちゃんと心の一部に、ほんの欠片でもいいから一部に、自分が映っている時間に、何よりちゃんと八戒が判断できる時間に、――――抱きたい。
 八戒が欲しい。
 心も、身体も、全部欲しい。
 

「か…なん……」


 痛いほど悲しい声で愛しい人の名前を今度ははっきり呼んだ八戒の唇を、悟浄は反射的に己の唇でふさいでしまった。それでも悲しい声はとどまるところを知らず、僅かに漏れた隙間からやはりその名前が何度も何度も繰り返される。

 何度も繰り返される、雨の夜の八戒の言葉。
 八戒が愛している人は、後にも先にも彼女一人だと、何度も何度も思い知らされる。
 仕方のないことなのに、仕方のないことなのに、どうして自分はこの言葉に過剰に反応してしまうのだろう?

「…か……」

 なん、と続くであろう言葉を聞きたくなくて、悟浄は、合わせられた唇から口の中に侵入し、きつく八戒の舌を吸い上げた。角度を変えて、深く、深く、何度も口付けた。少しでもそのひとの名を呼ぶような気配を八戒が見せるたびに、きつく、何も考えられなくなるくらい深いキスを。
 やがて八戒の口から漏れる言葉があまやかな吐息に取って代わられる。
 それでもそのひとの名を聞くのが怖くて、悟浄は唇を離せずにいた。
 何度も、何度も、何度も深く。幼い子供が、何かにおびえて母親に強くしがみつくのと同じように。
 
「…ご……」

 息をする僅かの隙を突いて、八戒が言葉を漏らした。

 …今、八戒はなんと言ったのだ?
 そのひとの名前ではない。K音でもN音でもない。
 
 ――――まさか。いま。

「ごじょ……」

 思わず悟浄は唇を離して少し身体を離し、八戒の顔を穴があくかのような瞳で見つめた。
 その瞳は虚空をさまよったままであった。悟浄を認識しているとはとても思えない。

 それでも、八戒は、今確かに自分の名前を―――呼んだのだ。

 たまらなくなって、なににたまらなくなったのか自分でも全く理解できずに、悟浄はなにかの衝動に突き動かされ、八戒を強く抱きしめた。そのまま、唇を滑らせて、八戒のカフスのついていない右の耳朶に舌をはわせる。
 びくん、と身体を揺らして八戒は反応を示した。
「もっと、俺の名前、呼んで?」
 耳元でささやいた声に八戒の瞳の焦点が、悟浄の紅い瞳に合わせられた。
「――――――――――――悟浄……」
 そう言って八戒の手が悟浄の背中に回される。

 あらゆる意味での理性の最後のひとかけらは完全にこなごなに砕かれた。
 悟浄は八戒のシャツのボタンを外すのももどかしそうに、せわしなくその手を動かし、同時にその唇で八戒の滑らかな白い肌に紅いキスマークをきざんでいった。

「ご、じょ…う」
 
 その夜、八戒は、声がかすれて出なくなるまで悟浄の名前を呼びつづけた。



 

 

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