月は東の空に出て
「…さて、どうしたものか」
どうするもこうするも選択肢は一つきりしかないのだが、とりあえず趙量はそれを口に出さずにはいられなかった。
彼の目の前には泥酔して転がっている赤毛のなじみの客が一人。
現在の時刻は太陽が中天に昇るか昇るまいかというところ。
梟の壁掛け時計が陽気に時間を告げていた。
「…まいったなあ」
そりゃあまいりもするだろう。彼はこの赤毛の客の家族でもなければ後見人でもないしましてや同居人でもなかった。彼には彼の生活があり、今日の夜の営業のためには店をきちんと掃除しなければならなかったし、きちんと市場に行って仕入れをしてこなくてはならなかった。
しかし、泥酔した人間をほおっておくと、嘔吐物で気管がつまり、死にいたることも彼は酒場のマスターの知識としてちゃんと持ち合わせていた。
「…八戒のところにつれてくしかないんだよなあ…」
その完全に酔いつぶれている赤毛を見下ろしながら、ため息混じりにその客の同居人の名前をつぶやいてみる。
いつもの彼なら、全く何の迷いもなくその赤毛の首根っこをひっつかんで、同居人のもとへと突き出してはいサヨウナラするのだが、どうもそのなじみ客は同居人とど派手な喧嘩をやらかして家を飛び出してきたらしかった。普通の喧嘩なら知ったことではないと言う感じなのだが、どうも今回は様子が違う。
そもそも相手があの碧のきれいな同居人だということからして腑に落ちない。
どう見ても、悟浄をそこまで荒れさせるような言動を取るような人間には見えない。
一体どういういきさつでよりにもよって悟浄のところに突然転がり込んできたのかは全く想像もできないが、こげ茶色のさらさらとした髪と、おそろしいほどの家事の腕前と、見るものを魅了してやまない碧色の瞳を持ち合わせたあの美人の同居人に…
「…ふられでもしたかな」
一応冗談めかして言ってみる。が、言った後でかなり核心をついた答えではないかと趙量は自画自賛をした。
勿論男同士だからセクシャルな関係ではないだろうと言うことは簡単に予想ができる。あの自他共に認める大の女好きが好き好んで男を性愛の対象に選ぶわけはない。
ただ、あれだけの孤独を抱えて独りで、一人だけで強がって生きて来た悟浄の心が八戒によってどれだけ埋められてきたかは、この町の一部の人間の目には明らか過ぎるぐらい明らかだった。
悟浄が、笑うようになった。
勿論悟浄はもともと笑わない人間などではなかったが、唇の端を上げて笑うシニカルな笑いしか見たことなかった趙量などは、八戒に向けてまっすぐにやわらかに笑う悟浄を見て危うく磨いていたグラスを取り落とすところだったのだ。
悟浄が、家に帰るようになった。
寝るためだけの家だったものが、「うちに帰る」などと言う一体お前はどこのマイホームパパだと後ろからけりを入れたくなるような台詞を当然のように吐いて、悟浄は、ここしばらく最短滞在期間記録を更新しまくっている。あの同居人がくるまでは、最長滞在期間記録を毎日延長していたと言うのに。
それだけ八戒は悟浄にとって大切な人間なのだろう。
独りしか知らなかった悟浄のこころをやわらかく包んであげられるたった一人の人間。
その人間と、よくわからないが何か行き違いでもあったのだろう。大喧嘩をやらかして、つぶれるまで飲んで、飲んで、飲みまくって……
八戒と顔を合わせられなかったのだろう。だから夜中に一人でふらふらとやってきたに違いないのだ。
「…そこまでわかってたって俺のとる行動は結局一つなんだよな……」
いつまでも悟浄をカウンターに転がしておくわけにはいかない。
医者に連れて行くものでもないが、意識が戻るまで誰かがそばにいてやる必要はある。
だからと言って自分がそばにいてやったとして、自分の今夜の店は一体だれが切り盛りするというのだろう。
「…つれて帰ってやるから後は自分でどうにかしろよ」
結局最初から最後まで趙量の選べる選択肢はそれしかないのだが、とりあえず一応ほかに何かないか探してやった上でその選択肢を実行することにしようともともと決めていた。いくら気まずくても、顔を合わせられなくても、それは悟浄自身で解決すべきことであろうと趙量はほぼ正確に予想していた。
泥酔したままの悟浄の腕を肩にかけて、趙量は中天に鎮座まします太陽を恨めしげに見上げながら、彼と、彼の同居人の住む森の中の一軒家へと歩いていった。
「…八戒、八戒、いるか?俺だよ」
ごんごん、というドアを直接叩く音と共に少しききなれた声を耳にした八戒は未だ関節がぎしぎし言って悲鳴をあげている身体を引きずって、玄関へと向かった。
チェーンを外し、鍵をあけるその僅かの間に、聞き覚えのあるその声の持ち主が、どうしてこんな森のはずれの一軒家などを訪ねてきたのか、少しだけ予想がついたような気がして、八戒は自嘲の笑みを口元に浮かべた。
「悟浄がつぶれちまってさ………………頼むよ、八戒」
八戒の顔を見た途端、半瞬だけ趙量は絶句し、驚愕を表情に出さないように努力しようとしてそれも見事に失敗し、ますます八戒は自嘲の色を濃くした笑みを浮かべた。
「…そんなに、ひどい顔してますか、僕」
「…ああ、めちゃくちゃひどい」
正直に感想を述べた後、肩にかけていた悟浄を八戒に手渡そうとして、趙量は、八戒のあまりのそのやつれっぷりにどうしようかと外しかけた腕をぴた、と止めてしまった。
それに気づいた八戒は、悟浄を受け取ろうと手をのばして言った。
「大丈夫ですよ。悟浄一人くらい運べますから…」
「そうか。なら頼む」
全く大丈夫そうには見えないが、本人が大丈夫だと言っている以上くだらないことで時間を浪費して、八戒の体力を奪うのも気分のよいものではなかった。
しかし、僅かに震える腕で悟浄を受け取った八戒を見て、趙量は声をかけずにはいられなかった。
「…悟浄は悟浄で、お前さんのことばっかり思ってこんなになるまで飲んじまった。お前さんはお前さんでそのやつれっぷりだ。……何があったかは知らないし聞きたくもないが、言葉を使ってどうにかなるもんだったら遠慮なく言葉を使って言いたいこと言った方がいいぜ」
「……………はい」
そう言って、趙量はドアを閉じ、今晩の店の仕入れをするべく急ぎ足でしまる寸前の市場へと出かけていった。
とりあえず返事を返したものの、八戒は趙量に言われたことがよくわからなかった。
悟浄が自分なんかのことを思って酔いつぶれていたわけなどないことはよくわかっている。
傷つけたのだ。自分が。思い切り、悟浄を。
背の高い悟浄が酔いつぶれていると、それを運ぶのにはものすごく力がいる。
半分引きずるようにして、八戒は悟浄を彼のベッドの上に運んだ。
そして自分は椅子をキッチンから引っ張ってきて、ベッドの隣に座る。
まだ身体の節々が悲鳴をあげているが、泥酔している悟浄から目を離すわけにはいかない。
時折苦しそうに寄せられる眉根や整った長いまつげを八戒はずっと見ていた。
吐く息はめちゃくちゃ酒臭い。
それなりに酒には強いはずの悟浄がそれほどまでに酒くさい息を吐くと言うことは、昨晩の悟浄の酒量が推し量られた。よほど、飲んだに違いない。
「悟浄……」
傷つけてしまったことはいくら悔いてもどうしようもない。本当に自分のエゴのためだけに悟浄をこんなに傷つけた。
そして、望みもしなかったであろうあんな行為まで――――――
返す返すも本当に自分は悟浄にとってただの迷惑な存在でしかないと八戒は強く思った。
それならそれで、早く、この家を出て行けばよいのだろうが、それはできないでいた。それができるくらいならとっくの昔にそうしていた。
本当にエゴの塊の自分。自分の都合ばかり優先する自分。
自分のためだけに、自分がここにいたいがために、自分が悟浄のそばにいたいというただそれだけのために悟浄の優しさに甘えて、甘えきって、出て行け、とはっきり言われないのをいいことにいつまでもこの家に居座る自分。
「悟浄……」
本当にごめんなさい。そう口に出したかったのに、それを口に出してしまった途端、何かが今度こそ本当に壊れてしまいそうで、八戒はただ悟浄の名前を呼ぶことしかできなかった。
日は傾き、そして、東から紺色を流していくかのような空の色がどんどん橙を侵食していく。
それでも悟浄は目を覚まさなかった。
悟浄がおきたときに食べてもらおうと思った野菜のおかゆはすっかり冷えてすでにでんぷんのり野菜合えに成り果てていた。
下弦の月よりなおやせた月が東の空に上っても、その月が沈む前に東の空に次の太陽が昇っても悟浄は目を覚まさなかった。
太陽が中天に昇っても、美しい夕焼けを描いても悟浄は目を覚まさなかった。
息はしているしときどきまぶたの裏で眼球が動くのも見える。
それでも、悟浄は目を覚まさなかった。
「悟浄……」
全く目を覚ます気配のない悟浄の隣で、八戒は一睡もできないままもう何度月が上ったか数えることもできないくらい、今が昼だか夜だかどちらかわからないくらい、時を過ごしていた。
悟浄は目を覚まさなかった。
こんなに長い間悟浄が眠りつづけるところを八戒は見たことがなかった。
「悟浄……」
息はしている。苦しそうにときどき眉根も寄せられる。
それでも悟浄は目を覚まさなかった。
「……ご…じょ……?」
八戒は自分の声が上ずっていることを自覚していた。
悟浄は間違いなくそこに存在している。生きている。生きているのに――――――悟浄は目を開けない。
悟浄が笑わない。悟浄が八戒、と呼んでくれない。悟浄が、肩に手を回さない。
「ごじょ……!」
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