月は東の空に出て

例えば、人に甘えることができると言うのはどういうことだろうか。

 すぐにヒトはそこにその存在があると言うことに慣れてどんどん贅沢になっていく。

 生きていてさえくれればいい。
 そばにいてさえくれればいい。
 笑っていてさえくれればいい。
 
 好きになって欲しい。
 
 自分のことだけを愛していて欲しい。

 それだけで嬉しい、と思う気持ちにヒトはすぐに慣れる。自分の受けた痛みには決して慣れる事がないというのに。

 一度甘えを許してもらえれば、際限なく甘えてしまう。
 どんどん要求が大きくなってくる。


 ただそれは、それらは全て、明日間違いなく太陽は東から上り、愛しい人はいつもの朝と同じように「おはよう」と起きてくることを絶対的に信じているからである。
 明日その人を失うことがわかっていれば、一体誰がその人に甘えられると言うのだろう。



「……ごじょ………」
 息はしている。苦しそうに眉根も寄せられている。まぶたの裏で眼球が動いているのも見える。
 しつこいくらいその3つは確認している。

 しかし―――――――――――

 しかし、それでも悟浄は目を覚まさなかった。
 もう何回太陽が昇って沈んだのか、月がどれだけやせたのか太ったのか八戒にはわからなくなってしまっていた。

 この状態を、もしかして、昏睡状態というのではないのだろうか。

 ―――その事実に思い当たったときに、八戒はどうして今の今までそのことに気付かなかったのかと激しく自分を罵った。
 とにかく、それなら医者を呼んで来なくてはならない。早く医者を連れてきて、悟浄をみてもらわなければならない。
 八戒には医術の心得はなかった。
 医者から見ればどんな些細な症状であったとしても、八戒にはそれが些細な症状なのか、重篤な症状なのか判断はできなかった。

「ごじょ……」

 しかし、悟浄のそばを離れることは不可能であった。
 相変わらず悟浄は泥酔状態なのだ。医者を呼びに行っている間に、悟浄に何か起こったら……

 それは、考えることも恐ろしい想像であった。

「ごじょ…」

 それでも彼は目を覚まさなかった。
 目を覚まさなかったのだ。

 昨日も目を覚まさなかった。今日も目を覚まさなかった。このままなら明日も目を覚まさないだろう。
 それが、ずっと続いたとしたら……?

 このまま、悟浄が目を覚まさなかったとしたら……?

「い…………!!!」

 くだらないことにこだわってくだらないことで悟浄を傷付けた。

 あんなに悲しそうであんなにつらそうな背中を最後に悟浄の映像が途切れるとしたら…


 どうして自分はこうなのだろう。


 失ってしまってからでしかどうして気付けないのだろう。

 甘えて、甘えて、甘えきって。失うことなど微塵も考えつかなくて。
 全くもって進歩も成長も学習能力もありとあらゆるそんなものも自分は持ち合わせていなかった。


 悟浄が笑ってさえいてくれれば。

 そんなくだらない言葉なんかよりも、悟浄が、笑ってさえいてくれれば…

「ごじょ…ごじょう……!!」

 震える指で、悟浄の額の髪をかきあげる。そのままその手を悟浄の頬に当て、さらにもう一度悟浄の名前を呼んでみる。

 かすかに悟浄のまつげが震えた気がした。

「ごじょ…!」

 目を、覚ますかもしれない…?

 そう思うと、八戒はいてもたってもいられなくなって、悟浄の頬を軽く叩き、覚醒を促す。

「ごじょ、ごじょ…!!」

 うっすらと悟浄のまぶたが開かれたような気がした。悟浄の唇が水を求めるように動いている。

「みず…みず、もってこなきゃ…!!」

 常の八戒らしくなく、狼狽してものすごく慌ててキッチンにむかい、転びそうになりながらコップに水を汲んで悟浄のそばに帰ってきたが、寝たままの姿勢の悟浄にコップから水が飲ませられるわけがない。

「どうしよう…」
 と3回繰り返し、八戒はコップを持ったままうろうろと部屋の中を歩き回り、そしてなおも水を求めている悟浄を振り返って口移しの決心をした。
 抱き起こして抱えてコップで水を飲ませるよりも悟浄に触れる面積が少なくてすむ。悟浄に嫌がられずにすむだろう。
 そう思って八戒は一口コップから水を含むと、悟浄の唇に自分のそれを押し当てた。悟浄ののどが、こくん、と音を立てて水を飲み干す。
 かさかさに乾いていた悟浄の唇が、今のでは足りない、とさらに水を要求している。八戒はコップを手にとり、きれいな唇をそれに押し当てて先ほどよりも少し多めに水を含むと、2口目を再び口うつしで悟浄に飲ませた―――――――――――


 突然、悟浄の腕が2本伸びて、八戒をきつく抱きしめた。
 あっという間に悟浄の胸の中に抱き込まれた八戒の耳元で、悟浄が、小さく、つぶやいた。

「好きだ」

 驚愕に目を見張り、同時にものすごく悲しい思いが胸の中に湧いてきて、八戒は思わず手を突っぱねて悟浄の胸から自分を引き剥がそうとした。しかし、悟浄の腕はびくともせずきつく、きつく八戒を抱きしめている。

「好きだ、八戒。お前のことが」

 再び繰り返されたその単語が、今度ははっきりと自分にむけて言われたものだと八戒は自覚し、やっぱりものすごく悲しくなってくしゃくしゃと顔をゆがめてしまった。
 あんなに、悟浄を傷付けて、あんなにつらそうな顔をさせた上に、悟浄に、思ってもいない、そんなくだらない言葉まで言わせてしまう自分がひどく情けなくて惨めになった。
 本当に自分は、悟浄に迷惑しかかけることができないのだろうか…

「……悟浄………」

 泣き出しそうな声になるのを必死でこらえて、八戒は悟浄の名前を呼んだ。こんなにつらい思いをさせるくらいなら、自分さえいなくなれば悟浄が笑っていてくれるなら、いっそ―――――
 そんな八戒の気配を察知したのか、悟浄が、自分の人差し指を八戒の唇に押し当てて、言葉をつむぐ。

「…なあ、八戒。言いたい事は多分大体わかるけど、そんなこと思うより前に俺の話、聞いて?」

 まだ少し酒臭い息を吐きながら悟浄が八戒の背中をあやすようにゆっくりとなぜながら言った。その声音も、背中をなぜる手もものすごく優しくて、八戒はずっとこのままでいたい、と思った。そして半瞬後にはそれはかなうはずのないことだと自分に言い聞かせる。

「俺さあ……好きってよくわかんね―の。酒や煙草は好きだけど、多分、そんな好きと違う好きが世の中にはあって、そっちの好きのほうが3000億倍重要なんじゃねーかっつーことぐらいはわかるんだけど」

 よくわかんね―の、という言葉をきいた途端身を硬くした八戒の背を悟浄はなおもかわらず優しくぜた。そしてそのまま八戒に何も言わせずに自分の言葉を続ける。

「でも、俺、お前に『好き』って言ってもらえたとき、めちゃくちゃ嬉しかった。本当に嬉しかった。なんて言ったらいいのかよくわかんないくらい嬉しかった。こんなに嬉しいのはきっと生まれてはじめてだってくらい嬉しかったんだ。―――今まで、誰に言われても嬉しくなんてなかったのにな」

 え、という形に唇を開き、悟浄の顔を見上げた八戒の顔を強引に胸の中に閉じ込めて、悟浄は大きく息を吸ってからなおも言葉を続けた。今、自分がどんなに情けない顔をしているか、悟浄にはよく分かっていた。八戒にだけはこんな顔を見られたくない。がらにもなく、馬鹿みたいに緊張しているこんな顔を――――――

「―――すっげー、単純じゃん、俺。どーでもいーやつに好きなんていわれても鬱陶しいだけなんだけどさ。お前に言われたから嬉しいんだ、って思ったら俺……どーしてそんなアホみたいに簡単なことにもっとはやく気付かなかったんだ、って。お前にあんな悲しい思いをさせずにすんだのに、って」

 …先ほどとは違う驚愕の表情が八戒に浮かぶのは悟浄には見えなかっただろう。必要以上にきつく、自分の顔を決して八戒に見られないようにきつくきつく自分の胸に八戒を閉じ込めながら悟浄は自分が言いたかった最後の言葉を一気に息を吐き出しながら続けた。

「こんな気持ちを表す単語を俺は知らないけれど、それが好きってことなのかなー、とか思ったらさ、お前にあんなにつらい顔させた自分が許せなくなって…んでも素直にそんなこと口に出せるわけもねーし、酒の勢い借りでもしなきゃとても言えね―って……だから、酒の勢いが残ってるうちにきちんとお前に言わなきゃなーって思って……」

 悟浄は、何を言っているのだろう?
 くだらないことにこだわって、悟浄を傷付けたのは自分。

 雨の夜、どうしようもないくらいに壊れて悟浄を困らせたのは自分。

 悟浄には迷惑ばかり押し付けて、自分は悟浄に甘えて、甘えて、甘えきって……そんな自分に向かって、悟浄は、何を言っているのだろう?

「好きだ。八戒」

 もう一度低く、そして甘い声で耳元でささやかれた悟浄の言葉が、八戒の胸に最後にすとん、と落ちてきて、一番胸の奥底からゆっくりと何かがこみ上げてきて、それに胸が満たされたときに、八戒は、堰を切ったように泣き出した。

「…ごじょ、ごじょう……!」

 突然泣き出した八戒をどうしてよいかわからず悟浄はただ八戒を抱きしめた。

「…僕、先生なんか、もう、絶対にしたくないです…悟浄に何かあったら僕、飛んで帰ってこなくっちゃならないから…もう2度と、失いたくないから……悟浄、ごじょう…」

 涙がぽろぽろこぼれてきて、しゃくりあげても一向にとまらない。嗚咽にさえぎられて、八戒はいったん言葉を区切った。きれいな、きれいなその涙に悟浄はそっと口付ける。

「好きです。悟浄、あなたのことがどうしようもなく好きです。こんなわがままでどうしようもなくてエゴの塊であなたを傷付けてばかりで、そんな僕が…あなたを好きだなんておこがましいことはよく分かっています。それでも、あなたを好きだと思う気持ちが止められない…悟浄、好きです。あなたのことが、好きです」

 なおも泣き続ける八戒に、悟浄はバードキスの雨を降らせる。ゆっくりと、八戒の言葉と八戒の存在を丸ごと受け入れようとするかのように。

「悟浄…ひどいことを言いました。あなたを傷付けました。本当にごめんなさい。あなたの優しさに甘えて、あなたを信じることができなくて……」

 なおも自分を卑下する言葉を並べ立てようとする八戒に、もういいから、とそう言って悟浄はくしゃくしゃの表情のままの八戒の顎を掴み、いきなり、深く口付けた。
 
 それ以上、言わなくていいから。
 
 そう言って、悟浄は八戒の唇を自分の舌でなぞり、うっすらと八戒が唇を開いたところに無理矢理舌をねじ込んで、八戒の舌を探り当てると、きつく、きつく吸い上げた。

「…ごじょ……」

 あまやかな吐息が八戒の口から漏れた。

「…抱きたい。お前が欲しい。お前だから、欲しい」

 紅の双眸がまっすぐに自分を見つめている。視線のとおりの悟浄のまっすぐな気持ちが自分の胸に直接注ぎ込まれているように八戒は感じた。

 自分が悟浄を欲しいと思っているように、悟浄も自分を欲しいと思ってくれているのだと――――――
 そう自惚れてもよいのだろうか。そう思っていれば悟浄にあんなにつらい顔をさせずにすむのだろうか。

「……、って言ってください……」
「…え?」

 よく聞こえないから、と悟浄は八戒の耳元に顔を近づけた。耳朶に唇が触れるか触れないかのところでいったんとまって再び八戒が言葉をつむぐのを待つ。

「好き、って言ってください……」
「…は、っか……」
「僕を、抱くときには、好きって、言ってください……」

 そう言って八戒は自分の両腕を悟浄の背中に回し、優しくその唇に口付けた。
 その瞬間、がむしゃらに悟浄は八戒を抱きしめなおして口を開くのももどかしそうに、その思いの全てを体から伝えようとするかのようにきつく八戒を抱きしめ、そして八戒のきれいな碧色の瞳を同じようにまっすぐ見ながら、きちんと八戒にこう告げた。

「……好きだ。お前のことが好きだ。好きだ」

 悟浄の言葉は悟浄自身が八戒に深く口付けることによってさえぎられた。歯列をわり、侵入してきた悟浄の舌が八戒の上あごを舐め上げる。

「ご、じょ……!」

 広く逞しい背中に爪を立てて、八戒は熱に浮かされたかのように悟浄の名前を呼び続けた。



 何層にも重なったパイ生地にオレンジリキュールを忍び込ませたかのような夕焼けの空が西の方角を占領する直前の時間、すでに東の空にはまだ白い色をした月がひっそりとその姿を主張していた。
 その月が、窓から二人を照らすころ、二人は何日も悟浄一人が占拠していたベッドを二人でわけあって、深い眠りに落ちていた。








 

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