風の強い夜
いい加減のばしのばしになっていた大掃除をしようと八戒が提案したのは暑い夏のきれいに雲ひとつない空がまるで海のような色になるくらい濃い青の昼だった。
暑さに耐えかねてベッドから抜け出た悟浄は八戒のいれてくれたディンブラのとてもきれいな水色が氷と触れ合ってゆらゆら揺らめいているのをぼーっと見ていた最中だった。
「このところ色々ありすぎて、すっかり掃除が滞ってるんです。悟浄、一緒に手伝ってくれますよね?」
最強の笑顔を向けられて、悟浄はとにかくどうしたらその場を切り抜けられるかおきぬけの頭を高速に回転させながら一生懸命考えた。しかし、大きめに割られた氷が少しずつ溶けて、しゃらん、と音を立ててグラスの中に沈みこむと、どこをどう考えても分が悪いのは明らかだと悟ってしまった。
「…掃除って何すんの?」
「とりあえず夏物と冬物をきちんと分けましょう。押入れだか物置だかわかんない状態のあなたの部屋の…」
「わ――――っ分かった、よく分かった。だったら3分待って八戒さ――ん」
…クローゼットの奥底に隠してあるあーんな本やこーんな本…ただのエロ本やえっちビデオなら別に隠す必要もないのだろうが、八戒との行為を成就するために涙ぐましいまでの努力を重ねて手に入れたそれらのもの―――を、見つけてもらうわけにはいかなかった。そんなもの見つけられた日には悟浄の男としての面子が廃る。
何食わぬ顔で優しくリードしてやるのが男の甲斐性だと悟浄は信じていた。
ものすごくあわててそれらの本をベッドの隙間に隠し、悟浄は不承不承部屋の掃除に取り掛かった。
「―――どうしてあなたはこうも極端に洗濯物をまぜられるんですかねえ」
盛大にため息をついて八戒はクローゼットと格闘していた。
洗濯は八戒がする。悟浄に頼むといつまでたっても洗濯ができないから。
ただ、それを取り込んで、自分のところにしまうのはそれぞれの責任、ということでやっていた。
――――が、それも考えを改めなければならないと八戒は腕組みをして考えた。
目の前には山とつまれた洗濯をしたままの服の数々。
下着もシャツもジーンズも全てまぜこぜに埋められている。
靴下なんかはまるでぐちゃぐちゃだ。悟浄が同じ色の靴下ばかり好む理由がようやく八戒には分かった。
すぐ脇には滅多に着られることのないパジャマがぐしゃぐしゃと丸めてほおり投げられていた。
「…きちんと分けて、たたんで、タンスに入れましょうね、悟浄」
「……だって着る時どーせまた出すんだぜ?」
「それまでほおっておくつもりですか?これはどう見ても冬物のセーターのように見えますが…」
うっ、と漫画のように言葉に詰まって悟浄は仕方なくその山に向かい、ぽい、ぽい、と適当に山をより分け始めた。
「…考えて分けてあるんですか?」
より分けられた洗濯物を律儀にたたみながら八戒は更に苦情を呈する。どう見ても下着とそれ以外にしか分けられてないような山は、きちんと半分ずつの体積になって数が2つに増えただけであった。
「考えてるよ。一応」
口を尖らせながら悟浄は八戒が1/4ほどたたんだ下着以外の服の山をがばっと持ち上げると、そのままタンスの引出しに全てを押し込み、上からぎゅうぎゅうと足で踏んづけた。
「………悟浄」
開いた口がふさがらないといったふうに八戒はあきれて困り果て、このままでは事態の進展は全く見込めないことに気がつき、とにかく自分がたたんできちんとしまおうと決意した。
「……よく分かりました。あなたに服をたたんでしまってもらおうと思った僕が間違っていました。悟浄、キッチンに行っててください。ディンブラがそろそろ良い具合に出てると思うので、氷を出してグラスに入れて飲んでてくださいね」
「……やだ」
「やだ、ってなんですか?服、たたまないなら僕がたたみますから、じゃましないで下さいよ」
悟浄にとってはこの部屋を出て行ってはいけない明確な理由があるのだが、そんなことは口が裂けても八戒に悟られるわけにはいかなかった。それでもどうしても服はたたんで入れないと気がすまなさそうな碧の同居人に、納得させるだけの部屋に居残る理由がなければならない。
「…俺、こっちの中の掃除してっからさー」
「…………どうしたんですか?悟浄?熱でもあるんですか?」
「お前ねー、お前の同居人を一体どんな生物だと思ってんの?」
「聞かせて欲しいんですか?」
「…遠慮しときマス」
とりあえず部屋に居残るからには少なくとも言ったとおりの行動はとらざるをえないだろう。マイナス5000億ほどのやる気レベルをかき集めて、悟浄は、クローゼットの奥に侵入していった。
「…あれ?」
「どうしたんですか、悟浄?」
侵入に成功した直後、がさがさと包みを開ける音がして、悟浄が少し驚いたような声を出した。
「…こんなもん、うちにあったんだ」
そう言ってさらにがさがさと派手な音を立てながら和紙の包みをあけて悟浄が取り出したのは紺色のしじらおりの浴衣であった。
「…風流ですねえ」
八戒が背後から覗き込む。長い間しまわれていたから少しほこりっぽいが、そのままでもすぐに着られそうなくらい、保存状態は良かった。悟浄にしては奇跡的だ。
「な―、はっかいー――」
「…何ですか」
「それ着てどっかでかけようよー」
「………悟浄……」
まだ攻略されていない山が残っているこの状況で呑気にそんなことを提案する同居人をはっきりにらみつけ、八戒はあきれた声を出した。
「絶対帰ってきたら俺掃除するからさー」
「その言葉は聞き飽きました」
「いや、今度こそ絶対まじだって。ねー、いーでしょ、八戒さー――ん」
「今このチャンスを逃したらきっと次は半年後ですよね。僕としてはその間あなたの部屋がまた洗濯物に占領されていくかと思うとおぞましくて夜もぐっすり眠れません」
「じゃー、ぐっすり寝られるように俺が……いてて、何で殴られなきゃなんないんだよ」
「あなたが言うととてもものすごい意味に聞こえます」
「期待してくれてんの?…いてっ、つねるな、こら」
少し顔を赤くしてそっぽを向く碧の同居人の肩に手を回し、とっておきの声で耳元でささやく。
「行ってくれね―ならご希望にお答えしてここで押し倒す。ダメ?」
「…!ご、じょおっ…!」
耳朶に舌をはわされて、肩口のラインを手でたどりながらそんなことを真昼間から平気で言う紅の同居人にそれ以上抵抗することは無駄だと八戒は分かっていた。
どちらにしろ掃除が中断されることにはまちがいがない。しかし、それならせめて、この洗濯物が再び汚れて洗濯機の友とならないように―――
「…分かりましたから…」
絶対、掃除してくださいね、とほとんど無意味な念押しをして、八戒は、浴衣に袖を通した。
ひゅうううううううう………どおおおおんっ ぱんっ
「あれ?」
小粋にしじらの浴衣を着込み、うちわを片手に下駄を鳴らす八戒を嬉しそうに見ていた悟浄の耳に、八戒の声が入ってきた。
「…今の音って…?」
遠くの街からの喧騒も切れ切れに聞こえてきた。
「こっちだ、見ろよ、八戒」
どおおん、どおおおおおおおんっ
「…花…火…?」
「キレーだな―、いいねえ、夜の花火ってのは。お祭りでもあんのかね」
花火に見とれる八戒に見とれて、悟浄はおおよそ間抜けな台詞を吐いてしまった。一体誰が朝や昼に花火を打ち上げるというのだろう?
鮮やかな光が夜空を所々明るくしながら数瞬で消えていく。
金属や鉱石の粉が火薬によって急激に化学変化を起こすことでおきるその一瞬の美しさに八戒は目を奪われた。
ただ惜しむらくは、少し風が強いらしく、その形はきれいな円を描くことなく酸化をはじめた途端に全ての光の筋が西の方向へと雪崩を打って流されていくことだった。
「…花火なんて、ずいぶん長い間見てなかったように思います……」
うちわを口元に当て、ふわっときれいに微笑んだ八戒の真後ろで、ちょうど一尺球が大きな音を立てた。その光の先端はきれいな碧色をしていて、その碧は八戒の髪にうつりこんで、そして儚く消えた。
「ありがとうございます、悟浄」
まっすぐに悟浄を見て、きれいにきれいに微笑んだ八戒を悟浄は黙って勢いよく自分の胸に引き寄せると、ぎゅう、と強く抱きしめた。
「…悟浄……?」
「…ダメ、お前、キレイ過ぎ」
そう言って更に腕に力を込め、悟浄は八戒の髪に顔を埋めた。
「い――――匂い」
「…ちょっ…悟浄、くすぐったいですってば……」
悟浄の逞しい腕が八戒を捉えて離さない。身をよじろうとしてもびくともしない。
悟浄の左手が八戒の背中をゆっくりとなで上げた。
「や、…悟浄、なに…まって……」
振り上げようとした右手を先に捕らえられて、その手首の内側に音を立ててキスをされる。いつのまにか悟浄の右手は浴衣のあわせから八戒の胸もとへと侵入を果たしていた。
「悟浄、悟浄…ってば…!なん…ですか、こんな、…や…!」
胸の小さな突起に悟浄の指が触れると思わず八戒は自分でも信じられないような少し高い声を出してしまった。それに気づいた途端に羞恥に顔を真っ赤に染める。
「やだ…ってば、外…ですよ、ここ…ごじょ…う!!」
「ダメ。もう。たまんね―――。そーーんな、かわいい声だしちゃダメだって。悟浄さんもうとめらんないよ?」
「…ナニそんな、余裕………あっ」
すでにかなりはだけられた胸元に悟浄が唇を寄せ、その胸の突起に舌をはわせた。誰がどう聞いても嬌声としか聞こえない声をあげてしまった八戒が先ほど以上に真っ赤な顔をして、悟浄の身体を引き剥がそうと腕を突っぱねる。しかし、悟浄はそんな抵抗にもびくともせず全くもって自分のペースで八戒の身体の熱を煽っていく。
「ごじょう…ごじょう…ってば……!」
「もー、色っぽくないコト言う口はどの口」
そう言って悟浄は八戒の唇に自分のそれを重ねると吐息まで奪ってしまうかのように深く、深く口付けた。
「すっげー、好き。お前が。どーしよーもないくらい、お前が欲しい」
「…っ…ご、じょう……」
「…知ってる?歌垣ってゆってさー、むかーーーしっからこーんな祭りの夜に、こーいうトコで好きなヤツと睦みあうっていう社会公認行事があるんだぜ」
「…だから…って!」
更に苦情を並べ立てようとした八戒に、悟浄は突然真剣な表情を向けた。
真摯な紅の双眸がまっすぐに八戒の碧の瞳を見ている。
「お前だから欲しいんだ―――――ほかの誰でもなく、お前が」
声音まで変えて、悟浄はそう言い切った。
…そんな風にそんな瞳で見られたら、そんな言葉を言われたら、自分は悟浄に抵抗できなくなることをきっと分かって悟浄は言っているのだろう。
それでも、そこまで分かっていても、八戒はやっぱり悟浄に抵抗はできなかった。
こんな自分を、欲しいといってくれる人がいる。
こんな自分を、好きだといってくれる人がいる。
「……ごじょ…う……!」
その夜はじめて悟浄の背中に手を回して、八戒は悟浄の名前を呼んだ。
突然、どうっと強い風が吹いて、悟浄の長い髪の毛を宙に舞わせると、その後ろに広がった花火も吹き飛ばしていってしまった。
何回も上がる花火を何度も吹き飛ばして、風はどうっと吹いていた。
そして同じように、熱に浮かされたかのように何度も何度も繰り返し悟浄の名を呼ぶ八戒の声も、片端から吹き飛ばして風は通り過ぎていった。
翌日、悟浄の部屋は史上初めて全ての服が悟浄によってタンスにしまわれた状態で発見された。
当事者は、その事実について多くを語ろうとしなかったが、そんなものは説明しなくてもあまりに明らかな理由によるものだったので、誰もそのことについて深く言及するものはいなかった。