白い月
朝、目が覚めるとまず顔を洗う。
髪をくしけずってパジャマを着替える。
それから新聞を取りに行って朝食の準備をするー――
そんな朝の風景が、個体ごとに違うだなんて思いもよらなかった。
悟浄は朝(というか当然昼なのだが)必ずまず水を飲む。そうでないと体がだるくてしんどいのだそうだ。
そして必ずしばらくぼーーーっとしている。そういう悟浄が言うところの「ゆったりした時間」をすごさないと、一日じゅう神経がささくれ立っていらいらしてしまうそうだ。
花喃と暮らしていたときには気付かなかった「全く他人と一緒に暮らしている」という感覚。戸惑いを覚えないといったらもちろんうそではない。
たとえば、ひとつのベッドの中でともに朝を迎えた時、太陽の光が窓から差し込んで悟浄を照らす瞬間などはそれを強く感じる。
自分と悟浄は他人なのだ。
血のつながりのない、人生のたった10分の1ほどを一緒に過ごしただけのその赤の他人を、どうしてこんなに大切に思えるのだろう。
なぜ、ともにあることをこんなに強く願えるのだろう。
…もっとも、大事に思う気持ちが、大切に思う気持ちがそう簡単に説明できるくらいなら、全くもって誰も苦労はしないだろう。
とにかくそんなことはどこかにおいておいたとしても、目の前にいる紅の瞳と髪を持つ、悲しくて、強くて、やさしいこの同居人が、大切でたまらないという事実は厳然とそこに存在している。
だったら、自分のその気持ちにだけはうそをつきたくない、というごくごく簡単な結論に達するのに自分はどれだけくだらない回り道をしてきたのだろう。
相手を思いやるという美しい響きの言葉を隠れ蓑に使い、結局自分が傷つくことばかりを恐れていた。手にいれた貴重な時間が信じられなくて。こんな自分を本当に欲しいと思ってくれているということが信じられなくて。
信じられないときに信じないことはとても楽だ。
すべてを疑ってかかるのはとても楽だ。
最悪の結果に終わった時にも、それが予防線となって「だから信じていなかったんだ」と自分を慰めることができる。自分が傷つかずにいることができる。
だけど、自分はそれでよくても、その相手にとったらそれはどんな気持ちになるのだろう。
自分が好きだと思った相手。
自分が大切にしたいと思った相手。
自分が、何よりも大事にしたいと思った相手。
そんな相手に、自分のことを信じてもらえなかったとしたら。
ほんのごくわずか想像力を働かせるだけでそのときの気持ちは痛いほどわかっただろうのに。
結局自分は自分のエゴでしか動けないのだ。
何度確認したって全くそのとおりだ。
相手のことを思いやってなどいないのだ。自分がかわいいだけなのだ。
それでも。
それでも、こんな自分でも、何度傷つけても悟浄は欲しいといってくれる。
好きだといってくれる。
そんな悟浄を大切にしたい。大事にしたい。
笑顔でいて欲しい。
そんな悟浄が好きだ。とても好きだ。
・・・何度も繰り返しそれを確認する自分が滑稽で八戒は少し笑った。
悟浄を傷つけるたびに、それを悟浄は自分で解決している。
・・・強いのだ。悟浄は。恐ろしく。とても。それだけ強いから、あれだけ、優しくなれるのだ。
悟浄に強くひかれるのはあたりまえのことだ。こんなすごい男にひかれないほうがおかしい。悟浄が好きだ。こんな自分でも、悟浄が好きだ。
それならせめて。もうこれ以上悟浄を傷つけることがないように・・・・・・
「おはよう・・・・・・」
紅の髪をぐしゃぐしゃとかき回し、キッチンの入り口にもたれかかって悟浄は眠たそうな顔をして、眠たそうな声でもう昼だというのにおはようの挨拶をよこした。
「悟浄、何食べますか?ご飯とトースト、どちらがいいです?」
「今日はご飯がいい・・・」
「わかりました。目玉焼きは目玉が2つでよいですよね」
てきぱきと悟浄の朝食の用意と自分の昼食の用意を平行して行い、悟浄がぼーっとしている間に八戒はいつのまにか悟浄の目の前に澄んだ琥珀色のキャンディーをクラッシュアイスに入れた淡い水色のグラスを置いて、目玉焼きとご飯の準備をしていた。
さらにボーっとしていると、あっという間に目の前には湯気を上げた温かな白いご飯と、二つ目玉の半熟の目玉焼き。いりこでだしをとったジャガイモと若布の味噌汁には三つ葉とねぎが彩りと香りを添えていた。
「すげ―よな、八戒。いっつもいつも思うけどさ」
味噌汁を口にしながら悟浄は毎度のことながら賛辞の言葉を述べる。
とにかく八戒はよく働く。
よく働くどころかこの「眠るための場所」だった部屋が、いつのまにか「居心地のよい生活空間」になってしまったのはすべて八戒のおかげだ。
八戒は家事の天才だ。ご飯は絶品だし、掃除は完璧だし、洗濯物はいつだって糊をきかせるものは糊をきかせ、アイロンをかけるものはアイロンをかけている。布団はいつも太陽の匂いがしているし、シーツは洗い立ての肌触りを悟浄に提供していた。
だいたい悟浄が起きている間は大概八戒は起きている。朝はいうまでもなく夜も悟浄が酒場から帰ってきたらなんだかんだと理屈をつけて起きている。八戒の寝顔など悟浄はここしばらく自分の腕の中でしか見たことがなかった。
「すごくなんかないですよ。悟浄がおいしいって言って食べてくれるから作り甲斐があるんですよ」
きれいに平らげられたお皿を片付けながら、食後の煎茶を入れ、さらにまだボーっとしている悟浄に向かってきれいに笑って八戒は言った。
「作り甲斐のない人には作りたくありませんからねえ」
「そーいうもんなの?」
「そーいうものなんですよ」
自分の分も煎茶を入れて、悟浄の向かいのソファに座って、八戒はようやくゆっくりと腰を落ち着けた。
「じゃ、これからも心配ないなあ。八戒のご飯、おいしーから、まずそうに食べるなんてできないもんな」
にかっと笑って悟浄はまっすぐ八戒を見た。その視線がまっすぐ自分の心に落ちてきて、八戒はどきどきして少し顔を赤らめてしまった。
「・・・そんな嬉しいこといわれちゃったら、今晩は腕によりをかけておいしいもの作らないといけませんね」
「ほんと?やったー!じゃ、買い物に行こう。買い物!!」
そういうなり早速上着を引っ掛けて悟浄は八戒の手を取り、玄関の方へと引っ張った。
「ごじょ・・・ちょっと・・・!」
「いーから、早くいこーぜ。俺、肉じゃがと秋刀魚が食べたい」
にこにこして、悟浄が八戒をやっぱりまっすぐ見ている。八戒は、自分のどうしようもなく汚いところまで見透かされていそうで、つ、と視線を横にずらした。
視界の片隅の悟浄の目がほんのわずか細められたような気がしたが、再びそれを確認しようとしたときにはすでに悟浄は玄関を出て、真っ青の夏の色にほんのわずか秋の色を薄く刷毛で流したような空を見上げて、「いい天気だ」と言っていた。
悟浄と一緒に買い物に出かけるのが、八戒は好きだった。最初の何回かは悟浄は苦心して何らかの八戒に物を持たせない理由をひねり出していたが、そのうち万策尽き果てたようで、八戒に重い荷物を持たせない理屈を説明せずに無言で絶対に自分がその買い物の結果をひったくって家路についていた。八戒も、そんな悟浄の優しさと、何より重いものを持ってしまった結果としての自分の身体の状態が余計に悟浄を苦しめることをだんだん理解してきたので、ここ最近は素直にそれに甘えることにしていた。
そうやって、ゆっくり、少しずつ思いを受け入れていってくれればいい。
悟浄は、そう思えるようになった自分を全く自分でほめてやりたいくらいだと思っていた。
思いをすべて受け入れてもらえるのはきっとものすごくうれしいことなのだろう。
そんな経験は微塵もないけれど、ほんのわずかでも思いを受け入れてもらえた時のあの喜びとはきっと比べようもないほどの。
だから、きっと自分は、すべてうけいれてもらえると言うことを望みすぎていたのではないかと悟浄は思っている。
思いがすべて通じることがものすごく難しいように、思いをすべて受け入れてもらえることもものすごく難しいことなのではないのだろうか。心と心の一部分が触れ合って、仮にその部分だけ受け入れてもらうことができたからと言って、それですべてが受け入れられるわけがないのだ。
お互い、そういう人物が生きているのか死んでいるのか全く興味もなければ知りもしないで暮らしていた。
そんな存在に思いが通じることでさえ奇跡的だというのに。
晩夏の空は濃い青色をすでに夕暮れの橙に半分を占領され、ちょうど悟浄の目線と同じに高さに降りてきた夕日が木々の隙間からガラスのかけらのような光を投げかけていた。
いつの間にか東の空には上弦の月よりも少し太った白い月が上ってきていた。クレーターが少しくすんだ灰色をして、本当にウサギが餅つきをしているようだ。
紙袋を両手に抱えた悟浄と、食パン1斤を大事そうに持った八戒が、家路についていた。
夕飯を腕によりをかけたおいしいものを作る約束があるため、いつもの買出しよりも多少は重くなってしまった八戒は、恐縮すると同時に、それだけ悟浄に甘えていられることがとても大切なことだと言うことをきちんと理解もしていた。
……それが、少しだけでも悟浄の思いを受け入れることになるのであれば。
「もう夏も終わるなー」
「早いですねえ。ほんとに」
両腕がふさがっているはずの悟浄がいつのまにか器用にハイライトを口にくわえて、しきりに八戒に何かを訴えている。八戒は苦笑して、ライターをかちりと回して悟浄の煙草に火をつけた。
悟浄は嬉しそうに紫煙をふうっと吹き上げた。
「そーいえば、おまえ、もーすぐ誕生日だろ」
「・・・ああ、もうそんな時期ですか。早いもんですね」
自分と、自分の半身が同じ女の腹からこの世に生まれた日。自分は生き残り、彼女は遠くへいってしまった。それを、確認するための日。
「うんと、お祝いしような」
「…え……?」
そんな言葉が悟浄の口から出てこようとは思いも寄らなかった八戒が、きょとんとした声をあげて悟浄を見やる。
悟浄は、ハイライトを上向きにくわえ、真正面を向いたまま、唇の片端をにっと上げて笑っていた。
「何せ、お前がこの世に生まれてきてくれた日じゃん。お祝いせずにいられないっつーの」
「…ごじょ……?」
「誕生日ってさ、世の中では力いっぱいお祝いするもんなんだろ?ケーキ買って、シャンパン買って、ローソクとか立てたりして、んでもってプレゼントとかこっそり隠して買っててびっくりさせたりするんだろ?」
「……しゃべっちゃうと、こっそり隠して、にならないと思いますけど……」
つっこみどころはそこではないということはよく分かっていたが、何かしゃべっていないと自分がとんでもなくみっともないことになりそうだということが八戒には簡単に予想されていた。
「だって俺誕生日なんて祝ったことね―もん。プレゼントなんて何がいいんだかさっぱりわかんねーからさ、八戒がほしいもんあげたいじゃん」
「ご……」
言葉に詰まった八戒を少し見やって、もう一度悟浄は視線を前に戻した。その視線の先には白い月があることを、八戒も同じ方向を向くことで確認した。
「誕生日がくるたびに、思い出すことってあるだろ。いやなことかもしんねーし、すっげー嬉しいことかもしんね―けどさ。今度の誕生日は否応なく俺と一緒にむかえるわけだから、それ、いやなことになったらいやじゃん」
「…一緒に、ってそんな…本人の意思は……?」
「えー、八戒、その日、バイト入れちゃった?」
「いえ……」
「んじゃー、いいじゃん、決定決定」
そう言って悟浄は大きく笑った。睫の長い目がくしゃくしゃと細められて、とても、とても嬉しそうに笑っていた。
「ごじょ………」
「イイ月だな―、見てみろよ、八戒」
八戒のほうを見ずに、悟浄は吸殻を足で踏みつけて、白い月を見て、言った。
「美味しいもん、いっぱい作ってくれよな」
「………………はい」
長い沈黙のあとの返答が少しふるえていたことに、悟浄は気付かないふりをした。
きっと、八戒には全部ばれてしまっているだろうから。
少しでも、気分転換になってくれれば、なんてことを思ってしまっていることなどは。
でも、ばれても何でもそんなことはどうでもよかった。
目の前にいる、この、碧の同居人が、悟浄にとってとてもとてもとても大切な存在であることはもう間違いないのだから。
「すっごく、美味しいもの、つくりますから……」
少しだけかすれた声で八戒はそう言って、とてもとてもきれいに微笑んで、悟浄の隣に並んだ。
白い月が投げかける淡い光が、二人の上に降り積もり、晩夏を彩る最後の夕陽の橙を反射した悟浄の髪が、八戒の肩の上にぱさりと落ちてきた。