うさぎ10匹
月のきれいな夜だった。
ちょうど森と町とが交わるところにあるその寿司屋の勝手口からは、黒々とした森の木々の上にぽっかり丸く穴があいたように見えるきれいな月が硬質の光を晧々と放っていた。
遠い東の国の伝説では、月ではうさぎが餅つきをしているらしい。
餅つきなんて1匹だけでぺったんぺったんついていたところで何も面白くないだろう。
つきたての餅は一体誰が食べるのだろうか。
自分で醤油をたらし、自分で海苔を巻き、自分で焼いて安倍川にしたところでたかが知れている。
そもそもうさぎは寂しすぎたら死んでしまう動物ではなかったのだろうか。
あんなに高い空の上で、ずっと一人で誰にも食べてもらえない餅を永遠につきつづけているのだとしたらとっくの昔に死んでしまうに違いない。
誰かが美味しいといって食べてくれるから、食事を作ろうと思うのだ。
…誰か、なんてそれはもうごくごく限られた人のためなのだということはいちいち確認するまでもなくわかっている。たった一人彼岸にいる世界で一番愛した、今でも世界で一番愛している人にはもう、どんなに頑張っても自分の料理を食べてもらえることはないというのに。
「……何だ、ありゃ」
目の前でざくざくと白菜に切込みを入れているはずの大将が何かの拍子に背後の月を振り返った途端、呆けた顔をして固まった。
なんだろう、と思った八戒も巨大な塩の袋のなかに右手を入れたままその光景に見とれてしまった。
既に冬の星が昇っていたこの夜の空気は冷え切っていてそしてとても澄んでいた。
硬質の光が照らす薄い雲は、ちぎれたりつながったりしてその満月の周りをふわふわと漂っていた。上空はかなり強い風が吹いているらしい。あっという間に雲はその姿形を次々と変えていく。
地上にもどうっという冬の匂いのする風が吹き付けたかと思うと、月のとなりに陣取っていた雲から次々と小さな雲がちぎれて飛ばされていった。薄いその雲が吹きちぎられると、満月の光を受けて輝き、白く縁取られた小さなかたまりが深い深い紺碧の空を流されていく。
……それは確かに、月からうさぎがおりてきたように見えた。
1匹2匹……10匹まで数えた時に、ようやく八戒は、もしかしてうさぎは1羽2羽と数えなくてはいけなかったのではないかとかなりどうでもいいことを思い出した。
大将はその光景に魅入られていて、煙草をくわえた口を僅かにあけてず――っとそれを見ている。
1年のうちで今この季節だからこそ見ることのできるその雲がつくったうさぎが、八戒には寂しい高い空から逃げ出そうとしているように思えてならなかった。
「……うわっ!?」
大将の素っ頓狂な声の直前に、大将がくわえた煙草の灰は自らにかかる重力との戦いに敗れて地球に向かって落下していた。ニュートンの発見以来、地球よりも重いものはまだこの地球上に発見されていなかったため、地球が別のものに向かって落ちていくところを見たものは誰もいない。地球上では必ず地球に向かってものは落下する。しかし、地球とそのものの間に何か挟まっていた場合、当然ものは地球にぶつかるよりも早くその挟まっているものにぶつかってしまう。
そして、今回運悪く挟まっていたものは、大将の左てのひらの甲であった。
「熱…ッ、あちちちちち!」
不意打ちを食らっても大丈夫な人間がいたらお目にかかりたいものだ。大将はとりあえず世間一般の大多数と同じように不意打ちを食らったらかなりパニックになるタイプだった。
手にもっていた白菜と菜っきり包丁をほおり投げ、あわてて立ち上がり、左手の甲に息を吹きかけながらそこら中を走り回るという昔の漫画そのもののリアクションをとる大将の手が、狭い勝手口の積み上げられた荷物にちょっと触れた。
……そこに積み上げられていた物体が雪崩を打って八戒のほうへと襲い掛かってきた。
「……で、お前がそーいう目にあったわけだ」
ベッドのとなりにキッチンから引っ張ってきたいすを置いて、その背もたれに両腕を組んであごを乗せ、悟浄はようやく寝かしつけた八戒を見ながらそう言った。
趙量の店に入ってきた第一報は『八戒が倒れた』だった。
今夜はどうしたんだというくらい勝ちまくっていた悟浄の顔色が瞬間的に青ざめ、まだぱたぱた言っている扉の前で肩で息をしている大将の店の若い板前を睨み殺すかのような視線を投げつけたあと、誰にも何も言わせないまま悟浄は自分も黙って上着を引っつかみ、それこそまさに風のようにあっという間に趙量の店を出て行った。
どこをどう走ったのかさっぱり悟浄は覚えていなかったがとにかく町のはずれのその寿司屋の勝手口にうずくまる八戒を見つけたときはさらに心臓が凍りつくかと思った。
「…悟浄……」
悟浄の姿を認めた八戒が少し困った顔で悟浄の名前を呼んだ。
雪崩を打って八戒の上に落ちてきたいろいろなもの―――例えばボウルだとかざるだとかうちわだとかてぬぐいだとかつかわなくなったまな板だとかたらいだとか菜ばしだとか雪平なべだとかお絞りだとか空になった油の缶だとか、そういうもののなかから、左てのひらの甲に氷を押し付けながら大将は既に八戒の発掘をほぼ終えていた。要するに片手で動かせる軽いものは、別に悟浄の登場を待つまでもなくどうにかすることができるものだった。
しかし、最後のものは大将はとてももてる状態ではなく、先ほどの若い板前一人が動かせる程度のものではなかった。
大将の店はかなり本格的な寿司屋だ。本格的証拠に玉は毎日必ず大将が焼いていたし、おしんこだって季節のものをきちんと大将が漬け込んでいた。
ここ最近八戒のおかげで客足がさらに伸び、ついこの間つけておいたみぶなのおしんこが既にそこをうつにあたって、大将はふたかかえもあるような大きな樽をどこかからもらってきた。大きな樽には大きな漬物石が必要なのは必然だった。
「……そういうわけなんで、この石、どかせてもらえませんか」
相変わらず少し困った顔で八戒は自分の左足の上にニュートンの法則にしたがって鎮座ましましているついこの間大将が見つけてきた巨大な漬物石を指差して悟浄に言った。
「……これくらい、よけきれなかったのかよ」
おそらく石をどかせばヘンな方向に足が曲がっていることは確実な八戒が、それでも必死で苦しい表情を見せない努力をしていることがわかった悟浄が、つい大将を怒鳴りつけそうになるのをこれも必死でガマンして、八戒に向かって軽口を叩いた。
「…よけたかったんですけどねえ。そうすると、刺身包丁6本セットに右手を射抜かれるところでした」
はは、と笑って八戒は肩をすくめた。なるほど。上着が少し破れている。毎日きちんと研ぎ澄まされているその刺身包丁はいとも簡単に八戒のうでを貫通するところだっただろう。この狭い勝手口で、それを避けられたということだけでも驚異的だ。
「………八戒、すまん。本当にすまん」
自分ではそれ以上何もどかすことのできない大将が、板前と悟浄が二人がかりでようやく持ち上げた石の下から現れた惨状を目の当たりにして、喉の奥から振り絞ったような声を出した。
「悟浄、医者に連れて行ってくれよな。医者代は俺が出すから…」
「あたりめーだ。これで医者代てめーが出さなかったら俺は労働基準監督署に直訴に行くぞ」
そう言って、不幸中のごく僅かな幸いにも関節部分は奇跡的に無事だった八戒の左足に添え木をしてその辺の手ぬぐいでぐるぐる巻きにしたあと、悟浄は八戒を抱きかかえて店を後にした。
人目につかないところでジープを呼び、輸血用の血液がないと騒ぐ町の医者をほとんど脅迫して治療をさせたあと、ようやく悟浄と八戒は森の中の一軒家に帰ってきたのだ。
「ぐるぐるまきにされてるからもしかしたら今夜は腫れて痛くなるかも知れねーし、熱も出るかも知れねーってさ」
額に当てられたタオルを冷たいものと取り替えようと悟浄は八戒のやわらかなこげ茶色の髪をかきあげ、そのきれいな碧色の瞳の持ち主をじっと覗き込んだ。
「…そうですか。ごめんなさい。悟浄。迷惑をかけてしまって…」
迷惑をかけるだとかごめんなさいだとかすみませんだとか、そういうことを言わせたら天下一品の口をちゅ、と音を立てたバードキスでふさぎ、悟浄はベッドのとなりの洗面器に張った冷たい水にタオルをくぐらせた。ぎゅう、と絞って再びそれを八戒の額に乗せる。
「お前のせいじゃね―じゃん」
そう言ってまたどっかといすに腰をおろして、悟浄はにしゃっと笑った。
「お前、足以外は無事だったし。だからいーの。―――ヤろうと思えばえっちもできるっしょ?」
ヤらないけど、と一応付け加える悟浄のにやけた顔面に枕をお見舞いすると、八戒は悟浄に背を向けようと寝返りをうとうとした。
「――――っ」
途端に激痛が左足から全身を襲う。
痛いということはその方向に身体を持っていってはいけないと身体が警告を発してくれているのだ。
「おとなしく寝てなって。ほら。今日は無理でも明日はちゃんと身体ふいてやるよ」
「…悟浄…!!」
先ほど枕を投げてしまったためもう何も投げつけるものがなくなった八戒は真っ赤になった顔を仕方なく両手で覆った。
…気がついたら夜明けの時刻だった。空気は澄み切って、とても冷え込んでいる。その寒さが幸いしてか足は大して腫れなかった。
……しかし。
「…!悟浄…!」
ベッドのとなりにもってきたいすの上で紅い髪をたらし安らかな寝息を立てている悟浄は全く後先考えていない格好のままだった。
剥き出しの肩に僅かにシャツを引っ掛けて、さすがに下はジーンズをはいていたがそれでも裸足で、…眠っている。
どこの誰がどう見てもそれは風邪をひきますよという格好のまま悟浄を眠らせてしまったことが悲しくなって、八戒はあわてて起き上がり自分にかかっている毛布を一枚、悟浄にかけようとした――――
ごん…どさっ
「八戒…!」
はじかれたように顔を上げ、悟浄は目の前に落ちてきた八戒をあわてて抱えおこした。
自分が骨折しているという事実をその瞬間すっかりきれいに忘れていたらしい八戒は見事に上半身をベッドから落下させていた。
「…悟浄……」
「お前…ナニバカなことしてんだよ!トイレに行くならおこせ。俺が連れてってやる」
「………………トイレじゃありませんっ」
ぷう、とふくれて八戒は、悟浄にもう一度ベッドに寝かしつけられて布団をかけなおされている間中むくれていた。
「…じゃあ、トイレじゃなかったらナニ。水でも飲みたくなった?」
「ちがいます」
「じゃ、なんだよ。夜中に突然ベッドから落ちるなよ。俺の心臓何個あってもたんね―ぜ」
「……すみませんでした」
ますます八戒は悲しくなって、悟浄のかけてくれた布団を頭からかぶってしまった。
足なんか折ってなければ。
悟浄にこんな格好をさせて風邪をひかせる心配もしなくてすんだのに。
悟浄に余計な心配をかけることもなかったのに。
多分このままではトイレにも自力ではいけないだろう。
当然ごはんも作れるわけがなければ掃除も洗濯も一切できるわけがない。
バイトもしばらく休まざるをえないから家計も苦しくなるだろう。
全部、全部悟浄が二人分背負わされてしまうことになる。
「……なーに考えてんの」
勢いよく布団がまくられた先には、どアップの悟浄の紅の瞳と紅の髪があった。
いつの間にかもう一度眠っていたらしい。
怪我をしたときにはその怪我を治そうと身体中の体力がそこに注ぎ込まれるから、運動していなくても疲れるのは当然だ。
「…悟浄……」
「…ちょっと、熱出てきた?」
潤んだ碧の瞳を見ながら、悟浄は八戒の額にごつごつとした大きな手を当て、自分の額の温度と比べてみる。
「……うさぎがね、いたんです」
唐突に八戒の口から出た単語を悟浄は咄嗟には理解できなかった。もう一度額の手を取り替えて、自分の額と八戒の額の熱を確かめてみる。
「……そんなに熱高いか?大丈夫か。八戒?」
「失礼ですね。大丈夫ですよ」
布団を肩までかけなおして、八戒は悟浄を見て言った。
「月からうさぎがどんどんおりてきて…それで見とれちゃった僕たちはあんなことになったんですけど……」
右手を拳にして人差し指を唇に当て、八戒はその碧の瞳に悟浄の紅の瞳をうつしこんで続けた。
「うさぎって寂しいと死んじゃうんだよなー、って思ったら、僕、あなたに食事を作ることができるんなら寂しくないなー、って思ったんです」
「……思考が飛躍してるような気がするけど、だから、ナニ?まさか食事作れなくなったから寂しい、なんていわね―よな」
「………」
ぐしゃぐしゃと紅い髪の毛をかき回し、悟浄は大げさにため息をついたあと、八戒に向かって言った。
「……あのねー。怪我人は余計なことぐだぐだ考えないで、さっさとなおすの。それが一番の仕事なんだから、わかってる?」
「わかってますよ。わかってますけど…でも…僕がこんな怪我なんかしなかったら…」
「……じゃあお前なんであの時俺の目の前なんかに倒れてたんだよ」
悟浄がいすにどかりと腰をおろして、上着の胸ポケットからハイライトを取り出して火をつけると、ぷかー、と紫煙を吹き上げた。
「あの時お前、一週間もこの俺に禁煙させたんだぜ?そんなことに比べればどってことないし――――」
右手で煙草をはさむと、悟浄はやはりにしゃっと笑って嬉しそうにこう言った。
「なおったらた――――――ッぷりサービスしてもらえそうだしー?」
「…悟浄ッ……!」
飛んでくる枕を器用によけ、悟浄はにしゃにしゃ笑っている。笑いながら、いすから立ち上がり、ベッドの縁に腰をかけた。
「いいか、よーく聞けよ。二度はいわね―からな」
真っ赤になった八戒の耳元に唇を寄せ、悟浄が低く甘い声で囁く。
「俺には今できることがあって、お前は今困ってる。だから俺は俺にできることしかやんね―し、むしろそれをやりたいの。わかった?」
「………ごじょ……」
真っ赤になったまま、目をこれ以上ないというくらい見開いている八戒の頬にキスを一つ残すと、ひらひらと手をふって悟浄は特製ランチを持ってくるためにキッチンへと向かった。
…絶対に瞬きはすまい、と固く誓ったかのような表情を隠すために右腕で目の上を覆った八戒の肩が少しふるえていたことには気付かないフリをして。
…きっちり10分後、八戒の目の前に出された悟浄特製ランチは、得体の知れない物体だった。およそ冷蔵庫の中身を全てぶち込んで炒めたかのようなものが丼に山と盛り付けられている。それを掻き分けていくと、その炒め物の重量に押しつぶされたラーメンが底の方から発見された。
「栄養つくもんいっぱい食って、早くなおせ」
にこにこ笑う悟浄に、ほんの少し引きつった笑顔を見せて、八戒は、その物体にはしをつけた。
……多分、もう二度と、うさぎが月からおりてくるかどうかを心配しないですむはずの、二人の、ある日のお話。