うつろはんかな君待ちがてに
「食らえ!」
鋭い気合とともに男の全身から炎の塊が飛散する。
「食らうか」
銀の釈杖でその炎を叩き落しながら悟浄が言った。
その背後で悟空は如意棒で炎を叩き、次々と消していく。八戒を取り囲んでいた炎が消えると同時に、八戒が悟浄に駆け寄ろうとする。
「くるなよ、八戒!」
男と悟浄を取り囲む空気は未だ炎の洗礼を受けたまま、触れればすぐに火傷してしまうくらいの熱を保ちつづけていた。
八戒の足が止まる。
「悟浄…」
「くるなよ!くるな、こいつは俺が殺す…!」
ぎり、と唇をかんで悟浄は目の前の男を睨みつけた。
「…炎が消せるからといって、俺の優位が逆転されたわけではない」
だらりと両腕を下げ、まがまがしい三日月の形の口に獣の笑いを張り付かせて男は言った。
「そんなフラフラなしにぞこないが俺を殺すだと……? 笑わせるな!!」
凶悪な表情を隠しもせず、男は悟浄に踊りかかった。八戒の眼をつきとおしたナイフを手に持っている。
悟浄の釈杖がそれを1度跳ね返し、きいいん、という甲高い音があたりの森に木霊した。ゆら、と悟浄の足が一歩横に流れて、悟浄は歯を食いしばってその足を踏ん張った。
「悟浄!」
「悟浄!!ダメダメじゃんか!俺がかわる!!」
悟空が如意棒を握り締めた手を方の後ろにひき、今にも飛び掛らんとする勢いで叫んだ。
「煩い!サルは八戒支えてろっつったろーが!」
言い終わるや否や猛然と悟浄は釈杖をかざして男につっこんでいった。常人ならばそのまま胸を串刺しにされたのは間違いないその一撃を、男は、ほんの僅か、足を半歩下げるだけでかわした。
「悟浄―――!」
「ダメだ!八戒!!そんな体力ない今のお前に何ができるんだよ!おとなしく俺のかっこいいとこみてろ!」
左足を支点にし、ぐるりと体勢を入れ替えようとした悟浄のその軸足がぶれた。すかさず男が悟浄の喉もとめがけてナイフを突きつけてくる。それを釈杖で受け止めた悟浄に体重をかけるようにして男は更に釈杖ごとナイフを悟浄に向かってつき立てて来た。悟浄の背が弓なりにそらされる。力がうまく入らないだろう足が小刻みに震え、腕と首筋には血管が何本も浮き出ていた。
「…やけに猪悟能にご執心だな」
正確に悟浄の頚動脈を狙っているそのナイフが目的を達するまであと少しであった。
加勢しようにもどうしようもできない状況で悟空は歯噛みした。
八戒は膝が崩れ、自分が地面に倒れこむ状況をスローモーションのように感じていた。相変わらず失血は続き、ぐらぐらする視界が渦を巻いて襲い掛かってくる。
「…貴様の知ったことじゃない」
崩れ落ちた八戒を悟空が寸手のところで抱きかかえたのを目の端に捕らえて悟浄は少しだけ安堵のため息を漏らすと、すぐに目の前の男に向かって怒りを結晶化したような台詞を投げつけた。
「……猪悟能が姉と通じていたことは知っていたのか」
「知っていた」
「咎なき人々を惨殺したことも?」
「知っていた」
「千の妖怪を殺し、自ら妖怪となったことも?」
「知っていた。全部、知っていた」
その悟浄の答えに、男は憤怒の形相で更にナイフを握る手に力をこめた。
「ならばなぜ、それだけの罪を犯した猪悟能をかばう……?」
釈杖を握る悟浄の手がぶるぶると震えだした。そんな悟浄の様子を憎憎しげに男が見る。
「許されると思っているのか?あの男が、ぬくぬくと、のうのうと、自分ひとり幸せに生き延びている今が!!」
八戒の頭を自らの膝に抱いていた悟空が、きっと、顔を上げる。
「許すとか許さないとか好きだな、貴様」
悟浄はもうかなりぶれてきている両腕と、自分の喉もとに迫るナイフの切っ先をまるで意識した風もなく、男に向かって言った。
「生きていくのに誰の許しがいるって言うんだ?ああ?―――許しがいるって言うなら俺が許してやるよ。この世界中の誰でもない、この俺が、八戒に生きていて欲しいから八戒は生きてていいんだよ!!貴様の都合で全世界が動くと思うな!!」
そう言って悟浄は唾を男に吐きかけた。少しだけナイフを持つ手の力がゆるみ、その瞬間悟浄は釈杖を跳ね上げ、男の喉下にその銀色に光る鋭い刃先を突きつけた。
「人殺しが罪じゃねえなんてくだらねえことは言わない。八戒は確かに大罪人だ」
後方に飛び退った男に息をつかせるまもなくその飛び退った分だけ間合いを詰めて悟浄は再び銀色の刃先を月の光に濡らして男の首筋を狙って正確に突き出す。
「貴様が八戒を殺したいと思うのは貴様の勝手だし、きっと貴様自身の中ではそれの正統な理由も根拠もあるんだろうがな……」
不意に至近距離から放たれた炎を悟浄はひろくなっている三日月型の刃で受け止めた。男の顔が失望に歪む。
「俺は八戒に生きていて欲しいし、それの正統な理由も根拠も俺はもっている。あいつが罪人だろうとなんだろうとそれが今のあいつを構成している一部なんだったとしたら、俺はそんなことどうでもいいんだよ!!」
言い終わると同時になぎ払われた釈杖が男の喉元を僅かに掠め、血を滴らせた。
「姉ちゃんとセックスしたら貴様が何か困るのか?人間から妖怪になったら貴様が何か不利益をこうむるのか?
―――笑わせんな!!貴様に関係のないどうでもいいことで八戒を愚弄するな!傷付けるな!!侮辱するな!!!」
そう言った悟浄の、渾身の力をこめて繰り出された釈杖をよけもせず、男は胸の真中から銀色の棒をはやして立っていた。苦痛の表情を見せるでもなく男はまがまがしくゆがめた唇の端をつりあげ、一気に全身から炎を立ち上らせる。
「…何だあれ!あんなでっかい炎―――悟浄っ!!」
「手を出すな!!」
「…三蔵!?あいつ、おかしいよ!胸貫かれてるのにあんな炎…悟浄っっ!!」
「手を出すな、といっている」
紫の瞳が悟空を射抜いた。悟空は仕方なく黙って、その大きな金色の眼に入りきらない炎を睨みつけ、そして、八戒の頭をそっと抱きしめた。
「……このとおり俺は貫かれようが炎に巻かれようが、どうしたって存在しつづけていられる。しかし、貴様のような男は今ここで殺しておかなくてはならないな」
ごお、っと言う音がして、一段と炎の塊を吹き上げてその男は抜けないまま釈杖を握っている悟浄に向かって手を差し出した。
「…貴様、人間じゃないな」
「そうだな」
「妖怪でもないな」
「そうだ。あんな下等種族といっしょにするな」
悟浄の服がちりちり言って焦げ始めていた。そして、その瞬間、悟浄の手に握られていた釈杖に何かの波動が伝わった。
「…それなら、貴様は……」
「貴様が想像しているのがあってると思うんならそう思っておけよ」
男の手が悟浄の肩に触れた。一瞬にして触れられた部分の悟浄の服が燃え上がった。
「俺が誰であろうと貴様には関係ない。俺は、必ず猪悟能を、その汚らわしい殺人者を―――――――」
じゃきぃぃぃん
鋭い音を響かせて、釈杖からのびた三日月型の刃がその男を縦に真っ二つに裂いた。男は、最後まで言葉を言い終えることができず、左右に倒れこんでいった。
その体の断面から呪札を貼り付けた麻雀牌が一つ、からリ、と音をたてて転がった。
「……式神………」
悟空がようやくのことでそれだけ言って悟浄の背中を凝視した。
悟浄が、その麻雀牌を足で蹴り砕くと、二つに割れた男の体がさらさらと砂のようにこぼれて風に吹き飛ばされていった。
「……熱っ!!」
悟浄が自分の肩を焼く服を脱ぎ捨てた。左肩に火傷を負っている。
ほんの一瞬だけ、死人の気配を悟浄は感じ、振り向くと同時にその気配は消えていた。
「…式神だったんだ、あいつ……」
悟空がぼそりとつぶやいた。
「だから、あんな炎も平気で作れたんだな」
「こらサル!ぼーっとしてないで水とか持ってきやがれ!!」
悟浄がわめきたてるのもまるで無視して、悟空は男のことを思い出していた。短剣を使う、あの男の憎しみは、一体どこからくるものだろうか…
「八戒が怪我してんだぞ!ナニやってるんだ!このバカ猿!!!」
「あ、ごめんごめん、俺悟浄のために水持ってこなくっちゃいけないのかと思った!すぐ持ってくるよ」
「てめ―……」
ぱたぱた、と駆け出す悟空に悪態をつく悟浄を見ながら、三蔵が袂からマルボロを取り出して、かちり、とライターをまわし火をつけた。
「切り札としてはどうかと思うが、まあ、あの男をしとめたことはまちがいない」
そして、ふう、と煙を吹き上げる。
「とりあえず、目の前の厄は去った。裏で糸をひいてる奴がいたとしても、もうしばらくはおとなしくしているだろう」
そう言った三蔵の前に、一枚の写真がひらひらと飛ばされてきた。三蔵は、黙って、その写真を手にとった。
誰かが肌身はなさず持ち歩いていたのだろう、よれよれになり、縁も古ぼけているその写真に写っていたのは一組の若い男女だった。
ひとりは黒髪の女性。
もうひとりは……
「ぎゃ―――、いてえんだよこのさるっっっ、もっと優しくできねーのかっ!」
「煩いぞエロ河童!てこずってた癖してかっこつけやがって、なーにが手出しするな、だ!!」
「そんなの俺の勝手だろう!てめーに手出しされちゃー俺の見せ場がなくなるってもんよ」
あまりの痛みに目の端に涙をためながら、それでも強がって振り向いた悟浄の目の前で悟空は唇をかみしめてたっていた。
「……じゃあ手出ししたいのも俺の勝手じゃないか。悟浄のあほっ、ぼけっ、考えなし!!」
「悟空……」
「そうですよ、悟浄。あなたひとりでなんで解決しちゃうんですか」
「…八戒!!」
上弦の月より少し太った月を背に八戒がしっかりと大地を踏みしめて立ち上がっていた。ゆっくり悟浄に近づいてくるその右手が、ぽお、と淡く光っている。
そして、悟浄の肩にその手を当てた。
「…ナニやってんの?八戒…?」
悟空が首を傾げてその様子を見ていた。
「…なんかよくわかんねーけど痛みがひいてくぞ……って八戒お前なんかこれってお前の身体によくないんじゃないのか?!」
悟浄ががば、と立ち上がろうとするのを八戒の左手が制した。
「…悟浄。僕の汚い過去にあなたを巻き込んでしまって……本当にごめんなさい。僕が、決着をつけなければならないのに……」
光が少し強くなったかと思うと、八戒は右手を離した。悟浄の肩の火傷がほとんどあとも残らず治癒されていた。
「百眼魔王の幻影は……」
「あいつはあの百足野郎の知り合いじゃねえ」
ざっ、と土を掻く草履の音がして、三蔵が近づいてきた。
「百足妖怪の一族は、貴様が全員殺したんだろうが」
八戒のほうを見ないまま三蔵が紫煙をくゆらせていった。
八戒が、眼を丸く見開いて三蔵を見上げる。
「……なあ、八戒」
悟浄が八戒に手を差し伸べて言った。
「巻き込むとか何とか…そーいうことはどーでもいいんだよ。嫌なら俺らは巻き込まれないように遠くで幸せになるし、どうするかはそれは俺らが決めることだろ?」
そこで言葉を区切って悟浄は八戒の手をつかんで八戒をたたせると、その真正面から深い碧色の瞳を覗き込んだ。義眼の傷は痛々しいままだが、出血は止まっていた。
「お前がお前の意志でやったことでお前がいやな思いをするのは、俺は嫌だ。お前を殺されるのは、俺はものすごく嫌だ。
―――だから俺はあいつと戦うし、それは俺の意志だ」
何も言えず、勿論悟浄も何も言わせず、そのままくるりと背を向けて、両腕を頭の上でくんで悟浄は三歩歩いた。
「……雪……!」
悟空が嬉しげな声を出した。
月は晧々と輝いているのに、どこからか風に運ばれてきた雪が舞い始めていた。
「…ああ、そういえば」
悟浄はポケットからハイライトを取り出し、ジッポーで火をつけてから、八戒を振り返っていった。
「今日は、クリスマスイブだぜ」
三蔵は手に持っていた写真に煙草の火を押し付けた。その部分からみるみるうちに燃え広がり、写真はすぐに灰になった。
その写真に写っていた男は、先ほど灰に成り果てた異国風の容姿をもつ男だった。三蔵は知る由もなかったが、八戒の、いや悟能と花喃の家の隣に住んでいた、百眼魔王に献上されかかり、花喃を身代わりに差し出した、女の手を幸せそうに握った、男の笑顔は、三日月のように唇の端をつりあげた笑いではなかった。
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