うつろはんかな君待ちがてに
「……何言ってるんですか、三蔵」
大きく目を見張った八戒の表情には視線を向けず、椅子にふんぞり返って三蔵は窓の外を見た。
「少し前から不穏な噂が流れている」
懐からマルボロを取り出すと、ゆっくりとした動作でそれに火をつけ、強く吸い込んで、三蔵はふう、っと白い煙を吹き上げた。
「百眼魔王の城跡地には貴様も見たように何も残ってはいなかった」
ずっと窓の外を見たまましゃべる三蔵の視線の先には、早くも傾き始めた冬の太陽の淡い光が青い空を満たしていた。
「火を放ったのなら何かは残ったはずだ――――――跡形もなく焼き払われたということは、それだけ力のある何者かが介入したと考えた方が自然だ―――と、考えたバカどもがいる」
「……三蔵……?」
「死体を誰も確認したわけじゃねえからな」
落ちそうになったマルボロの先の灰にようやく気付いたらしい三蔵はものすごくいやそうにハイライトの小山を掻き分けて、そこに灰をおとした。そしてもう一度強くそれを吸い込んで、やはり同じように白い煙を吹き上げる。
「最近辺境で式神が暴れるようになっている。これも百眼魔王の仕業だと思っているアホがいる」
「……」
「西域では、それまで平穏に暮らしていた妖怪が、何人か突如凶暴化している。これも百眼魔王のせいだというおめでたい奴がいる」
「……」
「そんな輩は、そのうちきっと世の中の全てのことを百眼魔王のせいにしだすだろうな。犬が吠えるのも太陽が東から昇るのも全部、そのうち百眼魔王の仕業になるんだろう」
乱暴にマルボロを灰皿に押し付けて三蔵は青から白へと変わっていく冬の空のグラデーションを視線でなぞった。相変わらず八戒のほうをみようとはしていない。
言うだけ言って沈黙を続ける三蔵のとなりで、八戒は手に持った本を裏返しにし、その上に両手を乗せて、顔を上げて三蔵をみた。
「三蔵、さっきから何をいってるんですか…?」
その言葉に三蔵はようやく八戒の顔を見た。そしてその表情に軽く驚きの色を走らせる。
「――――――皆殺したに決まってるでしょう」
穏やかな声で、穏やかに笑って、八戒はきっぱりと言い切った。
「あの城の中にいたものは、動くものなら妖怪に限らず鼠1匹、蜘蛛1匹まで。……僕が、全部、殺したんですから」
「いて―んだよっこのサル!!」
「さるさる言うな!あんな敵にあんな情けないことになってる怪我人はおとなしく寝てろっ」
「…んだとこら!てめーのように呼べばくるよな尻軽な武器を俺はもってね―んだよっ」
茲燕の家に運び込まれた悟浄にはすぐに血清が注射された。異様なまでに医者は低姿勢で、それがどこの誰の命令なのかを悟浄に一瞬で悟らせた。全く持って気に食わないが、最高僧の権力というものが利用できるのならばできる限り利用して、とにかく八戒のところに帰らなければ、と悟浄は思った。
こんな悟浄の状態を知れば、八戒にさらに負担をかけさせる。
「あの―……」
ぎゃいぎゃい騒ぐ二人の会話に恐る恐る入ってきた月明は悟浄の回復力の大きさにびっくりしていた。
「……あんまり動かれると毒が回るんじゃないんですかね」
「いーのいーの、こいつアホだから毒が回ったくらいがちょうどいいんだって!」
「てめ―…あんな毒にやられる俺じゃねーっつってんだろ」
「さっきまでうんうん唸ってたくせに―。えらそーにいえるのかー?」
明らかに悟浄に分が悪い。悟浄はふてくされてがばと、ベッドに寝転んだ。
その悟浄の枕もとに水が入った器を置いて、月明は悟浄の額に浮かぶ汗をゆっくりとぬぐった。
「それにしても悟浄、お前って結構強かったんだな」
しみじみと茲燕がつぶやいた。命の恩人に向かってその言い草はないだろうと反論しようとした悟浄は背中にまたもや冷たい視線を感じた。勢いよくベッドから起き上がり、また、月明を驚かせる。
しかし、その視線の持ち主の気配は一瞬で掻き消えていた。
「そーそー。カードにも強けりゃ喧嘩も強いの。俺ってすげ―じゃん?」
「体力馬鹿って言うんだと思うよ」
「……サルに言われたくないわっ」
「さるってゆーな!!」
「あー、だから……」
茲燕と月明がどうどうと二人を宥める。
もう少ししたら家に帰って早く八戒の顔を見たい。もう少しだけ体力が回復できたら、もう少しだけこの痺れが治まったら……
「ああ、ちなみに悟浄。お前さん、しばらくこのうちから出ることできないからな」
涼しい顔でさらりと茲燕が言う。悟空はそのとなりで心底つまらなさそうに腕を組んでぶすっと立っていた。
「この悟空さんが見張り役なんだとよ。お前さんが無理しないようにという三蔵法師様のお心遣いだ。ありがたく受け取った方がいいと思うぜ、俺は」
「三蔵の命令じゃなかったら悟浄なんかと一緒にいたくないんだけどなー」
「それはこっちの台詞だ!…って俺がこんなとこに縛り付けられてたら誰が八戒のコトみてんだよっ!あいつ今自由に動けないんだぜ?」
ますます不機嫌に頬をぷうっと膨らませて悟空がその疑問に答えた。
「……三蔵がいるんだって」
「…………三蔵がっっっ?!?」
素っ頓狂な声をあげて悟浄は目をまん丸に見開いて悟空の方をみた。
「あんな縦のものも横にしないような超鬼畜生臭クソ坊主が一体何ができるって言うんだ?!」
頭を抱えて悟浄は唸った。
「ていうか抵抗できない八戒を前にしてあのハゲがあ――んなコトやこーんなコトを八戒に要求してきたら……」
「……するか、アホ」
殴り飛ばしたいところを相手は一応毒にやられた人間だというところでバランスをとり、悟浄の額を小突いて茲燕が突っ込みを入れた。
「……それを僕にわざわざ確認するためにこんなところまできたんですか」
「そういうことになるな」
腕を組んで八戒をまっすぐに見て三蔵は答えた。
「……疑うんなら疑ってくださって結構です。やっぱり僕に監視をつけることにしますか」
もっとも今は動けないから監視をつけても無駄でしょうけど、と自嘲気味に八戒は言葉をつむぐ。
「監視は必要だ」
「そうですか。わかりました。……悟浄に迷惑をかけてしまうことになるんですね……」
目を伏せて、僅かに肩を落として、ため息をついて、八戒が言う。そして、身じろぎもせずまっすぐに八戒を視線で射抜きながら三蔵が口を開く。
「いや、あのエロ河童はしばらくここには戻ってこない」
「……どうしてですか?」
八戒の当然の疑問に三蔵は目を瞑り、しばらく沈黙して言葉を探していたが、結局一番ストレートな言葉を選んで八戒に告げた。
「街のバザールに百足の式神が出た。奴はそれに巻き込まれ、毒にやられて今茲燕という男の家にいる」
「………………!」
数瞬の絶句のあと、八戒は何も言わずにそのままベッドから抜け出そうとした。
三蔵がすばやくその肩を押さえ込みその碧の瞳の正面に自らの紫の瞳を固定した。
「動くな!貴様には監視が必要だといっただろう」
「……三蔵…!離してください!!悟浄が、そんな、式神になんて……!!」
「とりあえず命に別状はない。貴様が行ってどうなるものでもない」
必死に抵抗を続ける八戒のみぞおちにS&Wで一撃を食らわして、三蔵は乱れた髪をかきあげてどっかと椅子にふんぞり返った。
冬の短い昼はとっくに終わりを告げ、濃紺の星空が窓の外から部屋を照らしていた。
死人の気配が一瞬窓をよぎり、三蔵は鋭い視線を投げつけた。
「……玄奘三蔵がつきましたか。これは少しばかり厄介ですね……」
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