うつろはんかな君待ちがてに
上弦の月から満月に至る月齢は自然界に「満ちる」を提供する。
妖怪は人間よりもその影響を受けやすい。自然、細胞活動も活発になり、そのサイクルにあわせてうまく気を運行させれば回復力もいや増していく。
かたかたかたかたかたかた
極僅かに窓枠が揺れている。
「あら、立て付けが悪いのかしら」
月明がのんびりとお茶をすすりながら言った。茲燕と顔を見合わせて、お互いに、さあ、というふうに首をかしげる。
「…悪い、俺、小便行って来るわ」
「…おやおや、悟空さん、いいのかい?悟浄、どうせまた逃げ出そうとするよ?」
「だいじょーぶ、俺、ばっちり見張ってるから」
悟浄が席を立つのと同時に悟空も席を立ち、茲燕の家のリビングのドアを開けて廊下に出て行った。
「…あ、そうそう、月明、あんたすっごくお茶、いれるのうまいんだな。ありがとう」
パタン、とドアを閉める音がする直前に悟浄が月明に向かってそう言った。月明は、にっこり笑って「ありがとう」と言った。
茲燕と月明からは死角になっている部分のガラスがたわんで亀裂が入りかけていた。
……あからさまに、挑発ではなく、攻勢、だった。
「…もう、うんざりだぜ、サル!これでもまだこっちから仕掛けるなとか言ったら殴るぞ」
「まずいよ、このままだとこの家に危害が及んじゃう……」
みしみしみし
「……おい、サル!」
家全体が不気味にその身をよじっているような音を立てている。人間であるところの茲燕と月明では気付かないくらいのその軋みは、悟空と悟浄の耳にははっきり捕らえられていた。
「………サル!!!」
上弦の月より少し太った月が晧々と白い光を投げつけている。そして、不意に、微かにガラスが割れる音が響いた。
「……サル、貴様!!」
「………行くぞ、悟浄!!」
言うが早いか悟空は如意棒を呼び出して玄関のドアを開けるのと同時に地面に転がり、まっすぐにそのまがまがしい口をもつ男へと如意棒を突き出した。
「三蔵、行くってどこへですか…?」
ジープを走らせながら八戒が言う。闇雲に三蔵のペースにつきあわされ、巻き込まれ、目的地も告げられずハンドルを取っている八戒にとっては当然の疑問であっただろう。
三蔵は直接はそれに答えず袂からマルボロを取り出して火をつけると、ふう、と白い煙を吐き出してから言った。
「…あの家には結界が張ってある」
あの家、というのが茲燕の家だということはなんとなく八戒には分かった。
「結界の力が弱まってきている…あるいは、奴の力が強くなってきているというべきか」
三蔵はそれだけいって沈黙した。八戒は、なんだか悪い胸騒ぎがし、アクセルを強く踏み込むと、三蔵が指し示す方向へひたすらジープを走らせた。
「悟浄……」
あの家には悟浄がいる。もう長い間声も聞いていない、笑顔も見ていない、大切な大切な紅の同居人の名前を八戒は呼んだ。
できることなら、こんな自分の過去に悟浄を巻き込むことだけはしたくない。
……それは、可能なことだろうか。
事態が雪崩を打って悪い方へと転がっていっていることを、八戒は下唇をかんで耐えることにした。
「できるだけ遠くへ引きはなせっ!サル!!」
きぃぃん
悟空の一撃を短剣で防ぎきったその男はまがまがしい口元を一層ゆがめて、血に飢えた狼のように心底嬉しそうに悟空と悟浄を見下ろした。
精一杯低く押し殺された声で放たれた悟浄の言葉どおり、悟空は無言で街からその男を引き離しにかかる。
街のはずれにある茲燕の家から森に向かって、悟空が全力疾走する。一瞬だけ遅れて、その男は一定の距離を置いて、悟空に併走し始めた。
「……おいおい、あのサルの足についていく人間がこの世に存在するのかよ」
まだうまく大地を捉えられない自分の足について考えることがいやになった悟浄は、とりあえず今できる全力疾走で二人の後を追いながら悪態をつく。
悟空の強さは悟浄が知っている範囲の妖怪の中でも最上位にランクされる。その悟空と対等に渡り合うあの男は……
「とりあえず、人間じゃねーわな」
だとすると妖怪だろうか、と悟浄はその男の気配を思い出していた。妖怪、というには違和感を感じる。どこかで少しだけ感じたことのあるその気配は、一体どこで感じたものだったのか悟浄にはうまく思い出せずにいた。
……生きて居るものの気配ではないように悟浄には思えた。しかし、現実にあの男は悟浄の目の前で足を2本しっかり踏みしめて悟空と戦っている。
ばさばさばさ…ぐしゃあっ
派手な音を立てて、森の一角の木々が引きちぎられ、なぎ倒された。
「……悟空…!!」
うまく動かない足に心底頭にきて、悟浄は悟空の名前を鋭く呼んだ。そして、こんなところにあの足のつぶれた碧の大切な同居人がいない事実に、心のそこから安堵した。
「お前、どこの誰だ!!」
「……さあ、お前が俺のことを何と思おうとも俺は俺だ」
36回目の攻撃も巧妙に短剣ではじかれて、悟空は少し肩で息をしてその男に向かって叫んだ。
短剣の間合いは悟空にはまだうまくつかめない。そもそも短剣を武器に選ぶ時点で、絶対的に相手よりもスピードが上回っていなければならないのだから、好き好んでそれを武器にしようと思うものはほぼ皆無のはずだった。現に悟空は、短剣を武器とする敵と戦ったことはない。
慣れない間合いに悟空の如意棒からの攻撃は微妙にぶれるようになっていた。そして、その男にはそれだけで十分であった。それさえわかれば悟空の攻撃をよけることなど造作ない。
「何で、俺たちを付け狙う…?!」
「人聞きが悪い。別にお前を狙ってるわけではない」
息もつかせぬスピードで悟空が繰り出す如意棒を全て短剣の切っ先で受けて流しながら男は土気色をした顔に喜色をたたえて言った。その態度には余裕が感じられた。悟空を倒すことなどいつでもできる、という表情で、だからこそ悟空との戦闘を楽しんでいる。
「まあ、お前みたいにまあまあ強い相手と戦えるのは久しぶりだ。それも悪くはないがな」
「……何だと……!!」
「ホラほら、あんまり怒ると攻撃に力が入りすぎて隙が生まれる」
楽しそうに悟空に忠告すると、その男はいきなり短剣を突き出す角度を鋭く変えた。一瞬だけ無防備にさらされた悟空の脾臓付近をめがけてゆるくカーブを描いて短剣を突き上げた。
「うわああっ」
「……今の間合いでよくよけられたな。さすがは玄奘三蔵がそばに置いておくだけのことはある」
男の短剣は悟空の服と、皮膚を切り裂くことには成功していた。腹から血を流して悟空が飛び退る。
強い。この男は、絶対的に強い。
悟空は腹を押さえてぐっと顎を上げ、その男を睨みつけた。
今まで戦ったどの相手ともタイプの違う、その男に、どうやったら自分の攻撃が有効になるのか見当がつかない。
「…ぐだぐだ考えててもはじまんねー!俺は、俺のやり方でお前を倒す!」
つかないまま、それでももう自重という単語とは絶交したい悟空だったから、今度は如意棒を突き出すのではなくなぎ払う攻撃に打って出た。
「だから俺はお前を狙ってるわけじゃないんだがな」
縦横無尽になぎ払われる如意棒をかわしながら男は三日月型の口をまがまがしくつりあげて笑った。
「俺がお相手願いたいのは……」
不意に男は悟空の如意棒の攻撃範囲外に飛び退り、振り返りもせずまっすぐ真横に手に持った短剣を投げた。
「そこにいる、罪人だよ」
短剣は、緻密に計算され、密集した木々をするりとすり抜けたかと思うと、ちょうどジープから降り、息せき切って走ってきた碧の瞳をもつ人物のこげ茶色の髪をかすめて、びいいいん、と音を立てて深々と楠に柄まで刺さっていた。
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