水をください
墨屋で墨を買って来て、月明はあっという間に達筆振りを披露して、店の看板にはものすごく大きな文字で「三蔵法師様並びに三蔵法師様を束ねるお方お立ちより(ご降臨はさすがにまずいと思ったらしい)の店」という宣伝文句が書き添えられていた。そのとなりには爾燕が西方の言葉で全く同じ文句を書き付けている。
「この間のお坊様、絶対にえらいひとよねっ」
月明は何かというと八戒に嬉しそうに話し掛けてくる。
「もっとこうお客様にアピールしたいのよね。なんてかいたら一番効果的かなあ……
ねえ、八戒さん、きいてる?」
「……あ、ごめんなさい」
なぜだかよくわからないがとにかくここ最近八戒は外に出るたびに月明につかまっている。月明には悟浄に負けないくらいの八戒探知機がついてるのではないかと巷で密かに噂されていることは当然八戒自身は知らなかったけれど。ただ、月明が何の意図があって八戒を捕まえるのかが不明で、正直八戒は困惑し始めていた。
「どうしちゃったの?ぼーーーっとして」
「……どうしちゃったんでしょうねえ」
苦笑して、八戒は月明に向き直った。
今ぼーっとしているのは決して月明のせいではなかった。それよりも大きな困惑が八戒をとらえている。
昨日の深夜、かすかに聞こえたドアのノックに、八戒は少し寝ぼけ眼で返事をし、この季節にたぬきの子供がくるなんて珍しい、とキャンディーのビンを抱えて玄関に出て行った。
ドアを開けると、隙間から少し湿気を含んだ夜の風が、新緑の匂いを運んでくる。
「……」
そして、ドアの前に立っていたのは、一目でたぬきではないとわかる人物であった。
無言で差し出された書面を、八戒は神妙な面持ちで受け取った。
「……猪八戒……」
「はい」
深くフードをかぶったままのその老人が顔を上げて、八戒の顔を真正面から見据えて言った。初対面の相手に名前を呼び捨てされるいわれは全くなかったが、何故か八戒は、なんとなくその白い髭を生やした老人と初対面ではないような気がしていた。どこであったかといわれるとそれは全く思い出せないのだけれども。
「………何人、殺したのだ?」
何の前触れもなくさらりとそれを聞く老人が、それを聞くことを八戒はなんとなく予感していた。そしてその老人の瞳を真正面から見返して、目をそらすことなくきっぱりとこたえた。
「1000人以上は確実です」
「……………それを、後悔しているか?」
「いえ、微塵も」
微笑をたたえ、八戒は何の躊躇もなくそう答えた。
「……後悔しているのだとすれば」
「後悔しているのだとすれば?」
す、と目を細めて老人が八戒の言葉を正確に繰り返して問うた。
「花喃を、死なせてしまったただその一点のみです。―――それ以上の後悔は僕には存在しませんけれど」
それを八戒が言い終わるや否や、夜風がどうっと八戒を取り巻き、そして風が収まると同時にその老人の姿もかき消すように消えてしまった。老人が最後に何か言っていたが、きいたこともないような古い名前が耳に残っただけだった。そしてその名前も、八戒はどこかできいたことがあるような気がしてならなかった。
そして、八戒は自分の手元に視線を落とした。その手の中にあるのは、その老人が持ってきた書面だった。
「―――八戒?」
背後からぱさりと肩に上着をかけられて、八戒は現在生きているなかでそんなことをしそうなただ一人の存在に向かって笑顔を作って振り向いた。
「…どうしたんですか、悟浄。ぐっすり眠ってると思っていたんですけれど」
「どーせたぬきかと思ってたんだけど。んでもなんだか遅いし」
少し震える肩を悟浄が左手でしっかりと抱きしめた。
「…これを、渡されました」
「なんだこれ」
「手紙だと思うんですが……」
墨のにじんだ書面をまだ八戒は開いてみてはいなかった。なぜだかよくわからないけれども、それを開くことが八戒にはとてもためらわれてしまったのだ。
「これもってきたのどんなやつ?」
悟浄がその書面を摘み上げながら言った。
「深いフードをかぶった白い髭の老人でした。どこかで会ったような気がするんですけれど……」
「フードねえ。俺らってここ最近フードづいてねえ?」
「…確かに」
悟浄が会ったというフードをかぶった絶世の美女と、八戒がこの間バザールで会った絶世の美女とは形容が同じ「絶世の」でも、どうも受け取る印象が全く違うので、別人ということで話は落ち着いたのだが、今日はさらに第三のフードの人物がでてきてしまった。
自分たちはフードが好きな人種に何か恨みでも買っているのだろうかと半ば真剣に悟浄は考え、すぐにその考えのばかばかしさに思い当たり、とりあえずその書面を開いてみることにした。
「…まあ、開いたら爆発するなんて事はないと思うけど」
「どーいう仕掛けですか」
苦笑しながら、八戒は悟浄が開いたその書面を覗き込んだ。
そして、その書面の内容と差出人に――――――半瞬で絶句した。
「やめてください!!」
はっきりと悲鳴と懇願が入り混じった声がバザールの一角から響き渡った。
「なにをするんですか!!!」
がしゃん…となにかをひっくり返す音や怒号が入り混じっている。月明はとにかくその声の方向に走っていき、数瞬遅れて八戒もそれに続いた。意味もなく心臓の鼓動がやけに激しかった。なんだか、とても悪い予感がする。
「貴様、妖怪だろう!」
数珠を手に持った坊主の集団が、西方の絨毯を売っている店の前でがなりたてていた。女主人の目の前で、店中のものをひっくり返し、踏みにじり、わけのわからないことを言っている。
「言いがかりもいい加減にしてください!この間は確かにご寄付をお届けすることが出来ませんでしたけれど、それとこれとは話が違うはずです」
「…そう、それとこれとは話が違うんだなあ」
ククク、と卑しげに笑うと、その集団の中でもリーダー格の坊主が地面にはいつくばって頭を下げているその女性の顎を掴んで上を向かせた。
「俺たちが問題にしてるのは、寄付があったかなかったかじゃないんだ。妖怪が、このバザールにいるかいないか、というところなんだぜ」
下卑た笑いで周りの坊主も女主人ににじり寄っていく。
「知ってるか?最近、西方では妖怪が突然凶暴化し、何の罪もない隣人を虐殺して回っているそうだ」
どよ、と様子を見守っている周囲の人間からざわめきが立ち上った。隠し切れない動揺が次から次へと波紋のように広がっていく。
「妖怪ってやつはな、例えばそう、貴様みたいな赤い髪をしている種族がいてなあ……」
「な…そんな!この髪は交易で砂漠を越えるときに日に焼けて…!!」
「まあ、そうやって言い訳は誰にでもできるんだがな、ちがう、って言うんなら証拠を見せてもらわなきゃな」
坊主の集団どもの目が欲望にざらついていた。女主人の顎を掴んだまま、坊主は彼女を無理矢理立たせて髪を掴んで周囲の坊主に突き出した。
「本当の妖怪は、どこもかしこも体毛は全身真っ赤だ。貴様が言っていることが本当なら、貴様の体毛は…特に日にあたらない部分は元の髪の色でなくっちゃおかしいからなあ」
舌なめずりをしながら坊主が女主人の上着に手をかけた。彼女は真っ青になってがたがた震えて何もいえなくなっている。たまらず八戒が一歩前へと足を踏み出しかけたその瞬間―――
「ナニやってんのよ!!この変態坊主!!!」
鈴の転がるような声と常に形容される声が、怒りに震えて、まるでその感情を結晶化したように坊主たちに投げつけられた。
「ばっかじゃない!!あんたたちってよっぽど脳ミソ足りないのね。これだから長安しか知らない坊主は使えないんだわ」
人差し指を坊主に突きつけて、月明がまさしく沸騰寸前の表情で人ごみを掻き分けて最前列に乗り込んできた。
「なんだと女!我らを侮辱するのか!!!」
「貴様、自分が何を言っているのかわかっておるのか?!」
「…我らは、玄奘三蔵さまの部下だぞ!!!」
…どこかで同じような台詞を聞いた覚えがるな、と八戒は記憶の片隅に引っ掛かりを感じたが、次の瞬間それどころではないことに当然気付き、人ごみを掻き分けて月明の後を追う。
「だからってナニよ。ばかだからばかって言ってんじゃない」
少しも態度を崩さずに胸を張って言葉を続ける月明に、坊主の憎悪の視線が集中した。しかし月明はそんな視線など全く気にもとめてはいないようだった。
「あんたたち、本当に妖怪をその濁った目で見たことあるの?」
「それは…」
口篭もる坊主どもにさらに一歩近寄って、小柄な月明はリーダー格の坊主を下からにらみつけて言葉を続けた。
「本当の妖怪ってのはねえ。妖力制御装置もつけずに人間の形は保ってられないものよ!!!」
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