水をください 




 生きている限り待ち受けている死というものからは決して逃れることは出来ない。

 死ぬことそれ自体は少しも怖いものではなかった。
 怖いのは、死ぬことによって失ってしまうもの全てだった。

 失う恐怖を―――――――

 そう、失う恐怖。
 失うものなどもう何もないはずだったのに。
 全てのものを失ってしまったはずだったのに。

 紅い髪と紅い瞳をもつ人間と妖怪の間の禁忌の子供。

 ……失いたくない、とはっきり口に出すことができる。

 自分が消えて、自分が満足するだけならばいつだって消えてしまえばいいのだ。
 それを望む数限りない人を自分は事件に巻き込んだ。
 自分を殺したいほど憎んでいる人はそれこそ千の妖怪の数より多いに違いない。

 だから。
 それで自分の気が晴れるのならば、右目と同じようにこの喉も抉り取ってしまえばいい。
 そうすれば、自分の死を望む多くの人に対してほんの僅かでも贖罪気分を味わえるというものである。

 しかし。
 しかし、それならば。ごく少数の自分の生を望む人に対する落とし前は全くつけることが出来ない。

 自分にとっては全く価値のない自分に、生きているというただそれだけで憎悪の対象となり得る自分に、それでも生きろと言ってくれる大切な人たちに対する落とし前が。

 黄金の輝きを放つ世界一不機嫌な最高僧も。
 500年の孤独に耐えた金晴眼の持ち主も。
 
 生きてこそ、こんな生きる価値のない自分でも生きてこそ、彼らに何か返し得ることができるのだと、思わせてくれたのも彼ら自身だ。

 そして誰より、綺麗で綺麗で、悲しくて傷つきやすい魂をもつ、母親に愛されなかった子供の――――

 傷つきやすいくせに、それを表にまるで出さないその魂は、できる限り綺麗なままでいて欲しい。
 それはまるきり自分のエゴだ。

 本人にとっては―――悟浄にとっては大きなお世話だ。

 それなのに。

 例えば、悟浄といるというただそれだけで、驚くほど豊かな感情が八戒にもたらされる。

 嬉しいと思うこと。
 ほんの些細なことで嬉しいと思えること。

 悟浄が豆大福を買って帰ってきたとか、お風呂から上がった濡れた髪をわしゃわしゃふいてくれるとか。
 本当にどうでもいい、日常の一コマが、こんなにも自分に喜びをもたらすということを。

 結局は、それも、自分が嬉しいからというただそれだけのことなのだけれど。

 つまり悟浄がどう思おうとも、自分は、悟浄といるだけでこんなに嬉しくて、こんなに――――幸せなのだ。







「三蔵様から……?!」

 坊主ともごろつきとも知れない集団のたった一人残ったリーダー格のその男は驚愕に彩られた声を押し出した。

「妖怪……!」
「いつ狂いだすともわからない妖怪……!!!」

 途端に野次馬の中にいたやせて口髭ばかり目立つ男がわめきたてた。

「妖怪だ!!妖怪は取り押さえて身体を引き裂き二度と再生できぬようにしておかないと…!生命力の強いやつらはほおっておくと何をしでかすかわからないぞ……!!!」

 群集の八戒を見る目が明らかにかわった。
 空気が殺気立つのがひしひしと感じられた。

 ――――――この場に悟浄がいなくてよかった。

 悟浄まであらぬ疑いをかけられたとあってはもうこれは本格的にこの町を出て行くしかないだろう。
 しかし、少し前にこの町に流れ着いてきた自分と違い、悟浄には悟浄を大切に思ってくれている町の住人たちがいるのだ。
 心配と誤解を背負わせてこの町から出て行かせるのだけはいやだった。

「坊主!貴様坊主ならそいつを捕らえろ!」
「束縛の呪を使え!!」

 一定の方向に向かって野次馬たちの気が流れていっている。すぐにそれは激流となり、狂乱と恐慌の淵に落ち込んでいくだろうことは容易に予想ができた。

 八戒は目を閉じて、顎を上げた。





 すぐに、死ぬだの消えるだのサヨウナラだの出て行くだのこれでもかというくらい自分を否定することが大好きな碧の同居人は、悟浄にとってどんな存在なのだろう。

 目の前で、血にまみれた義母と、義兄と、その二人を見たあの最後の日から、大切なものなど何もないと思っていた。


 好き、などという単語は一体どんなときに使うべきなのか。
 それは、八戒に教えてもらった。

 八戒がほころぶような笑顔を向けたり、悲しい瞳で笑ったり、それを見ただけでぎゅう、と抱きしめたくなるのはそれは自分がどうしようもなく八戒を好きだからであるのだと、ようやく素直に受け入れることができるようになった。

 好き、に理由など必要ないことを、悟浄は散々思い知らされている。

 情緒不安定で薄幸型で、いつまでたっても自分を肯定できなくて、雨の日はすぐにとんでもないことを考えて、雨の夜はすぐにとんでもないことをしでかすような、そんな男と正直お近づきになれるとは悟浄は夢にも思っていなかった。
 しかもその男は、すでに最愛の人を一度失い、腸のヌードまで見せてくれる出血大サービスっぷりだったから、それまでの悟浄にとっては、間違いなく遠くで幸せになってくださいランキング第一位に輝いていることは間違いなしだ。


 それがどうだ。

 
 間違いなく傍で幸せになってくださいランキングダントツ一位に輝いている大切な碧の同居人が、群集からの殺気に囲まれている現場に誰に聞くともなく駆けつけることができるほど、どうしようもなく、八戒が必要なのだと―――悟浄は、改めて自覚せざるを得なかった。






「まあ待てよ。まだ、八戒が妖怪だって決まったわけじゃねーぜ」

 ざわ、と群集の動揺が広がった。

 紅い髪に紅い瞳の悟浄が、つかつかつか、と傍若無人に群集を掻き分けてすすんでくる。

「本当の妖怪なら、妖力制御装置を外したら、妖怪の姿に戻っちまうんだからなあ」
「……そうね。片時も離さずにつけているその片眼鏡は玄奘三蔵様から賜ったものだというめちゃくちゃ怪しむべき設定でもね」

 鈴の転がるような声を低く押し殺して月明は言った。

 八戒は、何も言わずに二人を見た。
 群集の動揺は収まるところを知らないようだ。悟浄のその紅い髪に、先ほどの坊主の言葉を重ね合わそうとするものが出ようとした直前、今度は、朗々と金色の声が響き渡った。


「さっさとはずしちまえ。そんなもん」

 八戒は軽く目を見張った。
 悟浄はいやそうな顔をして振り向いた。
 群集の間から驚愕とどよめきの声が漏れた。

「玄奘三蔵法師様……」


 月明が表情を消して、その声の持ち主の固有名詞をどこか読み上げるような口調でつぶやいた。










 

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