水をください
しんと静まり返った群衆の耳に、悟浄がハイライトの小箱をぐしゃりとつぶし、そして自分が口にしていた一本を右足でひねりつぶす音が響いた。
「……なんだ?」
群衆の中の一人が率直な疑問をとうとう口に出した。
「……なんだなんだ?」
「何だってんだ?」
「見ろ。あの碧の瞳の男」
「……どこか、何か、変わったか……?」
最後の一言をきっかけに、堰を切ったように群衆の間から口々に好き勝手なせりふが飛び出してきた。
「ぜんぜん何もかわってないじゃないか」
「耳がとがってるか?髪は伸びたか?」
「牙は生えたか?」
「……ようりょくせいぎょそうちなんてものじゃなかったんだぜ。きっと」
「そもそも誰だ、妖怪だなんていいだしたのは」
「いやその俺はそんな断言した覚えは………」
ざわめきと動揺の波が次々と押し寄せる群集をちらりと横目で見やって、三蔵は袂からマルボロを取り出すと、かちりとジッポーを回してそれに火をつけた。
「……見たか」
短く一言そういって、三蔵は口にくわえていたマルボロを右手に持ち替え、ふう、と紫煙を吹き上げてから群集を見渡した。
「こいつが妖怪だったら俺は捕まえてやるが、貴様らが見たとおり、こいつの身体は何の変化も起こっていない」
悟浄がその紅い髪をぐしゃぐしゃかきまわし、そっぽを向きながらハイライトをもう一本取り出した。
「……ぜ、ぜんぜん妖怪なんかじゃないじゃないか!」
「違う、俺はそんな…」
「そうだそうだ、濡れ衣もいいところだ」
「まったく見当違いじゃねーか!」
いいたいことだけ言って、逃げ去るように群衆の波は引いていった。八戒のモノクルが妖力制御装置でない以上、そんなものを玄奘三蔵から賜っている八戒を少しでもその三蔵の目の前で疑った自分たちが、三蔵にどういう仕打ちを受けるのか、恐ろしくて考えたくもないという表情で。
干満の差が激しい海の潮が引くようにあっという間に群集たちはどこかに去っていってしまった。群衆にまぎれて先ほどの坊主どももうまいこと行方をくらましている。
残ったのは、ため息をつきながらモノクルをかけなおす八戒と、ハイライトを斜めにくわえた悟浄に、灰が落ちそうになるマルボロを不機嫌に噛んでいる三蔵、そして表情を消したままでそこに立っている月明だった。
「……もうちっとましな言い方はなかったのかねー。三蔵さんよー」
悟浄が両手をポケットに突っ込んで、上半身だけせり出して三蔵に問う。三蔵は心底いやそうな顔をしながら、無言でその身を翻した。
「おいおい、三蔵。無視していくなよ」
悟浄が大げさに肩をすくめて三蔵の背に向かって言葉を投げる。八戒はいぶかしげな視線をむけた。三蔵がそんな態度をとることは、基本的にとてもとてもとても珍しいことだった。悟浄や八戒の言葉なら、うっとおしがることはいつもであっても、無視をすることなどなかったというのに。それほどまでに、三蔵はこの身に流れる妖の血を厭うようになってしまったというのだろうか……
「確かめたいことがあったんだろ?」
悟浄の言葉に三蔵は歩みを止め、そして顔だけこちらをちら、とむき、すぐにまた背を向けてバザールのはずれ、この町を取り囲む森の方へと足を進めた。
「確かめたいことはあった。だがもう確かめた。サルがあの森の中で腹をすかせてうるさいだろうから俺はそこへ行く。貴様らは間違ってもあの森の中の一番大きな楠の切り株のところなんかにくるんじゃねー」
そう言い捨てて三蔵は森のほうへと歩いて行った。悟浄は少し首をすくめて、「どこかの医者のようなことを言いやがる」と口の中だけでつぶやいた。
「……月明さん」
八戒が、未だ表情を消したままの月明に向かって半歩足を踏み出した。月明はゆっくりと顔を上げ、ゆっくりとその顔に笑みを浮かべて八戒をそのまま見上げた。
「あらぬ疑いが晴れてよかったわね。八戒さん」
乾いた風が、バザールの白い土を巻き込んで、砂埃を立てた。月明は片手でそれをよけると、まっすぐに、視線をそらさずに八戒を見た。
「連中、わけわからないことを言い出すんだから。ねえ、私、一言も八戒さんが妖怪だなんて言ってもないのにね」
「月明さん…」
「あんな連中が西からどんどん流れ着いてきちゃったら、真っ先に八戒さんに目をつけちゃうわ。やつらの妖力制御装置に関する知識なんてほぼ皆無でなければでたらめですもの」
「月明さん」
「うちの店の常連さんが、あらぬ言いがかりをつけられちゃ―、この李月明の名が廃るってものだわ」
「月明さん、もしかして……」
口を開きかけた八戒を月明が制した。背の低い彼女の右手が、八戒の口の前に人差し指で内緒のポーズを作る。
「八戒さん。私は、なーーーーんにも知らない一介の町人よ。そんな人間の前で、そんな顔してちゃだめ。きれいに笑う八戒さんをぜひ見たいんだから、私」
そういって、ウインクを一つ残して月明はくるりと背を向けた。
「八戒さん。もし、これからしばらくうちの店の串を食べる機会がなくなったとしても――――――」
立ち止まって、お下げをぶるんとふりまわして、背を向けたまま月明は両手を空に向けて言葉を続けた。
「私は八戒さんと悟浄さんがいつうちの店の串を食べてもいいように、ずっと、ずっと待っているわ」
振り返ることもなく、その言葉だけ言い置いて月明は彼女の夫の待つ家の方角へと足を向けた。彼女の口の中で何かつぶやかれた言葉は二人には聞こえなかった。どうも、「二人で帰ってきてね」といいたかったらしいがさすがにそれは遠慮をしたらしい。
悟浄が軽く目を見張り、その逞しいすでにバザールの中心人物となりおおせたごく最近西方から流れ着いてきたばかりの串屋の女主人の背中に視線を固定した。
乾いたバザールの風がさらに激しく土ぼこりを巻き上げて、その小柄な彼女の後姿を隠す。
こんな乾いた土が、水をすうっと吸い込むかのように最後の月明の言葉はすんなりと八戒の胸に入ってきた。
「食えねー女……」
悟浄が八戒の隣に寄ってきて、ハイライトをくわえたまましゃがみこんで言う。
「…やつらがお前の耳のカフスに気づくより前に、モノクルに意識を集中させて、そして見事お前を妖怪じゃないって信じ込ませちまった」
「…素敵な女性ですよ」
多分、彼女は知っていたのだろう、と八戒は思った。妖怪に滅ぼされた村から逃げ仰せ、こうやって無事に生き抜いている女性はもちろん只者ではないことは十分に承知していたけれども。
異常な回復力を持つ自分。三蔵とのつながり。肌身はなさずつけている片耳のカフス。
ヒントは驚くほど彼女にきちんと提示され、ジグソーパズルをくみ上げるように彼女は何かを理解したのに違いなかった。そして、それを理解したことを八戒にも、悟浄にも一言も言うことはなかった彼女に、本当に頭の下がる思いを八戒は抱いた。
狂った妖怪が、彼女の村を滅ぼしたのだ。
彼女が「玄奘三蔵法師」にこだわっていた理由が少しだけわかったような気がした。玄奘三蔵法師がついている妖怪なら、と思ってくれていたのだろうか……
「で、どーするよ。八戒」
ゆっくりとハイライトを吸い終わった悟浄が立ち上がり、八戒のほうを見て片端だけ唇を上げて笑った。
「三蔵様は、あの森の楠の切り株のところでお待ちかねだぜ?」
「……悟浄」
八戒は隣にたたずむ悟浄の横顔にゆっくりと視線を送り、その名前を呼んでからも、しばらく何かためらっていたが、最終的には決定的な一言を悟浄に向かって述べた。
「行きましょう。僕たちだって確かめなきゃいけないことがあるはずです」
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