附在額頭
〜fu zai e tou〜
…普通。
致死量の毒を、背中から腹に貫通する傷から体内に注入され、しばらく放置されたあと、散々動き回って炎天下の砂漠を車に揺られた挙句、運良く一命をとりとめるなどということは絶対にありえない。
だいたい。
彼は妖怪ではない。ふつうの人間のはずだ。
「神のご加護でもあるんですかねえ」
八戒は、ふつうの人間のくせに驚異的な生命力を誇るその最高僧にふさわしい理由を考えてみた。
「…でも、神様って、あー―んな方やこー―んな方なんですよね…」
だれとは言わないが、仏教に篤く帰依するものが見たら、間違いなく卒倒するような言動ばかりの某菩薩様と、その菩薩様に振り回されっぱなしのひげの神様。三仏神は、仏と神というわけの分からない組み合わせだが、とりあえずスポンサーなので、ごちゃごちゃ言うのはやめておこう―――
「まあ、あなたが、神様なんかには頼っちゃいないというのはよくわかりますけど」
深く眠りつづける神の座にちかきものを八戒は、ベッドの隣に置かれた椅子に座って見つめていた。
昨日、三蔵はようやく目を覚ました。三日間の昏睡からさめた一言目の
「おれは強かない」
という言葉で、彼がどうしてこの世に足を踏みとどめることが出来たのか、八戒は瞬時に理解した。それは、間違いなく彼がただ一人、いつまでもその心に住まわせているその人のせいだろう。
まったく後先考えないというところではだれも彼も甲乙つけがたいこの4人組の状況で、やっぱり後先考えずにビールを飲み、タバコを吹かした三蔵は、それから再び深い眠りに落ちていた。
「…なんでこう後先考えないでムチャばかりする人が集まるんでしょうね…」
八戒がそっとつぶやく。
窓枠を通して入ってくる白い月の光が、三蔵の白い顔をさらに白く浮き立たせていた。
少し苦しそうに眉間にしわを寄せて、熱い呼吸を繰り返す三蔵が、―――もっとも、眉間のしわなどないときのほうが珍しいのだが―――なんだかとても神々しく感じられて、八戒は感嘆のため息をついた。
「下賎の者を従者に選んだ―――」
と、評判の三蔵法師サマは、そんなうわさなどハナから相手にしてはいない。下賎の者のほうも、何から見て下賎なのかさっぱり理解できなかったので、自らを下賎だとはこれっぽっちも思っていなかった。
だが、こんな三蔵を見ていると、八戒は、自らの手が否応なしに罪に汚れていると自覚させられる。
三蔵は、浴びた血をすぐに洗い流せる力を持っている、と八戒は思う。
強い、強い、その心。
八戒に生きる、ということを突きつけてきたのはその紫の瞳だ。
死んで罪を償おうなどという甘い夢は、彼の声によって霧散させられた。
生きてかわるもの―――
それはいったい何なのだろう。
…生きてかわったのは自分自身だ。
あのまま死を選んでいれば決して経験することもなかったであろうこと。
―――例えば、嬉しい、と思うとか。
自分のために生きていたい、と思うとか。
誰かの心の一部に、自分がいることを見つけられる、とか。
死んでいれば少なくとも生命線を油性マジックでかかれることはなかったし、何度言っても空き缶にタバコの吸殻を突っ込まれることもなかっただろう。
それが、自分の心に何かを満たしていく。
多分それは、もうとっくになくしたと思い込んでいる「幸せ」ではないか、とも分析してみる。
錯覚でも思い過ごしでも勘違いでもそう思えるのは生きてきたからだ。
だから八戒は、こうやってここにいることを間違いなくよかった、と思うことができる。
この黄金の髪の隣に。
八戒に、生を選択させた存在の横に。
少し苦しそうに三蔵が眉間にしわを寄せた。
呼吸が荒くなり、くちびるがかさかさに乾いている。
…熱が上がっているらしい。
冷たいタオルを、と思ったが、砂漠の中のこの町でこんな夜中に自由に水がくめるわけがない。
でも三蔵は熱を出して苦しんでいるし、人間の彼だから、このまま体力を消耗させる一方だと絶対によろしくない。熱による体力の消耗は、全身に渡るから、とにかく熱を下げないことにはどうしようもない。
いすから立ち上がって八戒はそこらへんを動物園の白熊みたいに歩き回りながら考えた。
水もない。夜風に当てるなんてとんでもない。最悪なことに薬もちょうど切らしてしまった。気は三蔵が昏睡状態に陥った直後から、さんざんおくりつづけている。
何か、他に熱を下げる方法は…?
八戒は、何も思いつかないまま、さらに白熊度をましてうろうろ部屋を歩き回った。
だから、微かな声が自分を呼んでいることに気がついたのは、たまたまベッドのとなりを通ったときだった。
「八戒…」
いつのまにか目を覚ました三蔵が、八戒を呼ぶ。
「三蔵、気がついたんですね…」
八戒が、気がついた、という事実には嬉しそうな、でも熱は一向に下がっていないう事実にはつらそうな、複雑な表情をして、ベッドのそばに近づく。
「八戒、熱、下げろ…」
「…ええ、三蔵。下げてあげたいんですが…」
薬も何もないんです、とかなしそうに伝える。
「…そんなもん、なくていいんだ……額…」
「え?」
「額、貸せ」
そう言って、三蔵は自分の手で自分の前髪をかきあげた。最初、三蔵が何を要求しているのか理解できなかった八戒も、少し前に三蔵が悟空の熱を下げた時のことを思い出した。
「熱なんて、こーすりゃ誰でも下がるんだよ」
そのときと同じ台詞を吐いて、三蔵が八戒を再び呼ぶ。
いま、自分が三蔵に触れることは三蔵を汚すことにはならないのかなどという逡巡は一瞬のうちに封じ込めることにした。とにかく、三蔵が、それで熱が下がると思っているのならその要求にこたえるべきである。
八戒は三蔵の眠るベッドに腰をかけて、汗ばむ三蔵の前髪をかきあげた。
ひやりとした八戒の手の感触が気持ちよくて、三蔵は目を閉じる。そして、八戒はその額を三蔵の額にこつん、とくっつけた。
ちょっとキスみたいだ、と目を伏せた三蔵の長いきれいな睫を見ながら八戒は考えた。
こんなことが許されるくらい、三蔵の近くにいるのだ、と自惚れてもいいのかなとも思った。
合わせられた額からは信じられないくらいの熱が伝わってくる。
その熱さに驚いて、そしてどうしてこうすることで熱が下がるのかということを八戒は考えた。
「…何で、こうすることで熱って下がるんでしょうねえ」
額を合わせたまま、八戒が三蔵に聞く。
「…知らん。知らんが、熱が下がるのは確かだ」
瞳を開けてまっすぐ八戒を見て三蔵が言う。
「…あなたは、こうやって熱を下げてもらってきたんですね」
「…フン」
直接は答えずに三蔵は視線をはずしてそしてもう一度まぶたを閉じた。
もしかしたら、ちょっと照れているのだろうか、と八戒は思った。
多分、彼の師、彼のただ一人の人間である光明三蔵以外の存在にこんなことを許したのははじめてだろう。
そう思い当たると、なんだかとてもくすぐったくなってきて、八戒は思わず表情に笑みを出した。その笑みを三蔵に見られたら何を言い出すかわからない、と思ってあわてて表情を消そうとする。
だが、無理にけそうとすればするほど、笑みは自然に顔に広がっていって、とうとう八戒は三蔵に何をいわれてもいい、と悟ることにした。
「三蔵…?」
八戒が、目の前の、あと3cmもよればキスできるところにいる三蔵を呼んでみる。しかし、彼からは何の返答もない。「…眠っちゃいました?」
額は相変わらず熱いが、ずいぶん落ち着いた呼吸になってきたことが確認できた。その笑みの理由も追求されずにすんだので、八戒は安心して額をそっと離した。
「必要になったらまたいつでも呼んで下さい。とりあえず、今晩はここにいますから」
眠る三蔵にそう告げて、八戒はベッドの隣の椅子に腰をかける。
白い月が砂漠の砂に反射して、外は案外明るかった。
その夜、三蔵はあと2回目を覚まし、そのたびに八戒に「額を貸せ」と要求した。
きちんと要求にこたえた甲斐があって、翌日、三蔵の熱はすっかり下がっていた。
本当に、こんなことで熱が下がるんだ、と八戒はちょっと驚いて、寝不足のためにでてきた小さなあくびをかみころした。
附在額頭:額をくっつける(口語北京語)転じて、「こつん」