変わるということと続けるということは隣の芝生が青く見えるのと同じ事なのかどうか
「やってくれ」
どっかりと潔くあぐらをかいて、悟浄は少しふんぞり返ってえらそうに言った。
「…そんなえらそうにされてもねえ」
八戒は苦笑する。
ようやく、悟浄が本来の生気を取り戻し、停滞していた旅を再開できそうになったところである。
清清しい朝日が洞窟を照らし、焚き火が熾となってかすかにまだ暖かさを保っているこの時間。
悟浄にしては信じられないくらい早起きだった。世間一般レベルから言っても確実に早起きとしかいえないその時間に、八戒はたたき起こされて洞窟の前の草むらに引っ張り出されたのだった。
八戒の右手に握られているのは少し古ぼけたはさみだった。旅の途中でどんどん古ぼけていくことになってしまったそのはさみは、包帯やテープから、固いガソリンボックスの蓋を開けることにまであらゆる用途に使われていた。
したがって、悟浄の要求にこたえることははさみにとっては大したことではないはずだ。
「八戒」
「なんですか」
「笑うなら笑えよ」
「あはははははは」
悟浄がぎゅうと目を瞑り、しかめっ面をしたまま背後の八戒に話し掛けた。そのものの言い方がおかしくて、八戒は声をあげて笑う。久しぶりだ。
「…ホントに笑うことねーじゃん」
「だっておかしいんですって…あなた、素直じゃないくせに考えることは小学生なみですから」
こみ上げてくる笑いを抑えきれず、八戒ははさみを握った手を口元に持っていき、つっかえつっかえそう言った。
「いーだろー、とにかくこんなこと頼めるのお前しかいないんだから」
「はいはい、わかってますよ」
八戒は更になんだかおかしくなって、ついでに少し嬉しくなって、悟浄の髪を束で取り、それに向かってしゃきんとはさみを入れた。
しゃきん、しゃきん。
器用な八戒の手が巧みに悟浄の髪を短くしていく。
…最初、悟浄が髪を切ってくれ、と言い出したときに、八戒は真っ先にそれは悟浄なりにけじめをつけようとしているのだと理解した。
悩んだ時間は人生の無駄になるものではない。本人にとっては、悩んだその経験が大いに後で生かされてくる財産になるはずである。
しかし、それはあくまで本人にとって、という大前提なところにあるからであって、それに巻き込まれるちょっとした知り合いは大変迷惑なことこの上ない。
どこか遠くで他人が悩んでいることに対して三蔵は決して何も言わなかったが、今回の件は相当頭にきているらしかった。三蔵にとって悟浄は「どうにもできないことでぐじぐじいつまでも悩むチキンへたれ男」でしかなく、労働要員がそうやって呆けている間、自らが様々に労働しなければならなくなったのだから彼にとっては怒るのも大変ごもっとも、というところだ。 仲間なら仲間の成長を喜ぶべきところであるのだろうが、残念ながらこの三蔵一行、仲間意識が大変芽生えているとはとても言い難い。
もっとも、錫杖の重傷っぷりから考えると、悟浄が呆けていようがいまいが足止めされる日数は大して変わりはなかったのだろうけれど。
「丸坊主にするんでしたっけ」
「……それだけは勘弁」
―――赤い髪の毛を丸坊主にしたらまるでどこかのバスケット漫画の主人公になってしまう。
まあ、そんな事情はおいておくとしても、悟浄としては錫杖に負担をかけさせたくはなかったのだ。
その手に錫杖を召喚できるようになってからこっち、悟浄は丸坊主にしたことはない。「何かしでかした後」「丸坊主にして」「責任をとる」という行為が存在することを錫杖はきっと知らないだろう。
しかし、それでも万が一彼女がそのことを知っていて、そして「悟浄の丸坊主は自分のせい」と考えたとしたら。
自意識過剰だとかなんだとか言われても構わないと悟浄は思った。とりあえず錫杖に負担をかける可能性があるのならそれは少しでも取りのぞいておきたい、と悟浄は思ったのだ。
だが、のこのこと何にも気合を入れずにまた三蔵に「やあ、よろしく」と声をかけることは悟浄にはできなかった。
なので、折衷案として今八戒が悟浄の髪を切っている次第である。
錫杖に聞かれたら「気分転換」と言っておけばごまかせるであろう長さに八戒は悟浄の髪を整えていく。
しゃきん
八戒の白い指が通されたはさみは気持ちよく悟浄の髪を切り落としていく。
「…僕だってついこの間というか昨日までというか現在進行形で怪我人なんですけどね」
「わかってるよ」
「人使いの荒い人ですね、あなたも」
「お前だから頼んでんの。他の誰に頼めるかよ、こんなこと」
悟浄は先ほどと同じような台詞を繰り返した。
それを聞くと八戒は何故か心の奥からにっこりと何かが浮かんでくるような気分になる。
お前だから、という言葉は酷い殺し文句だと八戒は思った。
自分が特別扱いをされていると思うのは八戒にとってよいか悪いかといわれればよいほうの感情に位置するように思われた。
まあ、そうは言っても同居時代から悟浄は似たような台詞で八戒に色々と面倒なことも押し付けてきた。
戸籍上の妻を寝取られた男が逆上して悟浄宅を襲撃に来たときもそんなことを言っていた気がする。
しゃきん
最後のひと房を切り終わり、悟浄の髪はすっきり短くなった。
「よし!ありがとな、八戒」
ぴょん、と飛び上がって首をこきこき言わせてから悟浄は服についた赤い髪の毛を叩き落とした。にっこり笑って八戒を振り向く。
ちょうどそのとき、悟浄の真後ろから朝日が射してきて、悟浄の輪郭を強烈な白で縁取った。
にっこり笑ったその口元と、真っ赤な髪が、やけに八戒の印象に残る。
「どういたしまして。それじゃ、皆が起きてこないうちに、水汲みにでも行っておいてくださいね」
「……ええっ」
「くちごたえはナシですよ。無償で髪を切ってもらえるだなんて教育上悪いですから」
「誰の教育だよ」
「あなたのに決まってるでしょう」
無敵の笑顔でにっこり笑い、八戒は悟浄に向かってバケツを2つ差し出した。
「…へーへー、ありがとうございました。八戒センセー」
少し背中を丸めて、ポケットに手を突っ込み、バケツを二つガンガンいわせてぶら下げて悟浄は水場へと足を向けた。
「ずいぶん早いと思ったら…」
琴の音のような声が背後からして、すぐにその声の持ち主が八戒の隣に並んだ。
「やっぱり沙悟浄はあなたでなくちゃだめなのね」
ふぁあ、と大きな欠伸をかみ殺して如意棒は意味ありげに八戒の方を見上げた。
八戒は、表情を変えずに、ちらりとその黒髪の持ち主を見やる。
「やっぱり、っていうところは気になりますけれどね。これであなたも退屈から解放されるんじゃないですか」
「もうねえ。私は沙悟浄に慰謝料を請求してもいいくらいだと思ってるわ」
笑って物騒なことを言う如意棒の言葉に反応したのかどうか、悟浄はくしゃみを一つした。
水を汲んで帰ったら錫杖はもうおきているだろうか、と悟浄は思い、そのときにかけるべき言葉をぐるぐるぐるぐる頭の中で反芻した。