世の中に時々現れるすごく力を持った武器を「魔器」と呼ぶのは共通語かどうか
「それにしても」
太陽が昇ってすぐ、乾燥地帯に現れる一瞬の朝の白いやわらかい光の中、八戒は隣で水を汲む世間一般にいうところの絶世の美女に向かって話しかけた。
「いつまでたってもその格好じゃ今度敵が襲ってきたときに困りますね」
「ほんとね。困っちゃうわ」
つい昨晩棒から妖怪へと変化を遂げた、その女性は豊かな黒髪を揺らして、ころころと笑いながら答えた。少しむっとして八戒が言葉を返す。
「困ってばかりもいられないでしょう。どうにかしてもらわないと、とりあえずジープの定員のこともありますし」
「誰が走ってついてくることになるのかしらね」
あくまで他人事のように続ける如意棒は、水をバケツに汲み終わると、えい、と小さな声をかけてそれを持ち上げて運んでいった。
のらりくらりとかわされる自分が彼女に遊ばれていることはすぐに八戒に知れていた。なんといっても経験の差(歳の差というべきだろう)は大きすぎる。
しかしかといってほおっておけば間違いなく悟浄は彼女をモノにすることに執念を燃やし、悟空には顰蹙を、三蔵には鉛玉をまとめてダース単位でお見舞いされるに違いない。
そのたびに盾に使われるのはごめんだと八戒は思っていた。
大体そもそも悟浄の女好きなんかとっくのとうに知れていることなのにいちいちいちいち大げさにわめきたてられると、何だか悟浄がますます女に執念を燃やしてしまうように八戒には感じられた。
「それで揉め事起こしてかえってくるんですから……」
一夜のお相手のほうは悟浄に口説かれて同意の上でコトに及んでいたとしても、お相手に既に相方がいた場合、それはかなりフクザツなことに八戒まで巻き込まれることは度々だった。
「相手のいる女には手出ししねー」
という悟浄の言葉はほとんど本当だった。その女が、相手のことを心のそこから思っているならば悟浄は声すらかけはしない。しかし、自分が紙切れ一枚に縛られて、こころがすれ違っている女の場合悟浄はむしろ積極的に声をかけた。
「……まあ、僕には関係ないことですけれど」
女が泣こうがわめこうが知ったことではない。もちろん男が泣こうがわめこうがそっちもどうでもいいのだが。
基本的に八戒は誰がどうなっていようが本当はかなりどうでもよかった。
どうでもよくなかった世界でたった一人の人を失ってからこっち。
本当に大切な人など二度と現れないことはわかっているし、彼女以上に愛する人もできるわけがないとずっと思っている。
今自分が生きているのは、彼女がそれを望んだから。
死という安寧に逃避できるほど自分は善人ではなかった。
「…なんか、調子狂っちゃってるなあ……」
あの美女が現れてからペースを乱されっぱなしだ。頭をひとつふって、八戒が彼女のほうを見やると、そこにはちょうどおきてきた悟浄と彼女が、楽しそうに何か話している光景が目に飛び込んできた。
「…ほんと、調子狂っちゃいます……」
えい、とバケツに水をくみ上げて、八戒はすっきりしない気分でジープのところへ戻っていった。
バケツが重そうだから持ってやる、とのそのそおきてきた悟浄が如意棒に声をかけた。如意棒はきれいに笑って、「ありがとう」と言ったから、悟浄は眠気もいっぺんに吹き飛んだ。
本当におしい。まったくおしい。
どうして如意棒のほうがこんなに「口説いてください」といわんばかりの年頃の美女に化けるのだろう。思い余って悟浄は本人に聞いてみることにした。
「何でお前、女の姿なんだ?」
「そりゃその方が面白いからよ」
くるりと背を向けて如意棒がからかうような口調で言った。からかわれていることを自覚して悟浄は少しむっとした表情を浮かべる。もっともそんなことにはまったく動じずに、しかし突然に少し真剣な顔をして、如意棒は悟浄のほうへずい、と顔を思い切り近づけていった。
「魔器、って知ってる?」
「知らないな」
「そうでしょうねえ」
それきり如意棒は黙って何事もなかったかのようにくるりと振り向いて、バケツを運ぼうとした。
「おいおい、そんな思わせぶりな台詞だけで会話を終わらせんなよ」
如意棒の手からバケツをひったくって悟浄は片手でそれを軽々と持った。ジープのほうへ運んでおかないと、今後水にありつけないという笑えない状況が起こってくる。人数が増えた分、備蓄が必要な量も必然的に増えるというものだ。
「…賄賂によっちゃ―教えてあげないこともないケド」
意味ありげな視線を斜め上方に投げ、ちらと悟浄の表情を盗み見する小悪魔みたいなかわいさを持った彼女の手のひらの上で転がされていることはもううんざりするほどわかっていた。
「ナニがほしいんだ?」
半ばあきらめて、悟浄はその視線に自分の視線を絡み付け、見下ろしながら言った。
「あなたの心」
「……簡単じゃーないですか。悟浄。これで悟空に頭を下げなくてすみますよ」
まっすぐ悟浄を見てそう答えた如意棒の声に、3年間聞きなれてきた碧の同居人の声が続いた。視線を声の方向へ向けると、これ以上ないというくらいさわやかに笑ったこげ茶色の髪を持つ、すばらしく均整の取れた肢体を持つジープの運転手がそこに立っていた。
「…八戒……」
なんとなく決まりが悪くて、悟浄は八戒をそおっと上目遣いで見た。何も悪いことはしてないし手も出してないし三蔵に追いかけられて八戒を盾にしているわけでもないのに、何だか八戒が怒っていることで、悟浄は決まりが悪く思ったのだ。
「じゃあ僕、朝ごはん作ってますから。作り終わるまでには三蔵と悟空と、あなたの大切な錫杖も起こしておいてくださいね」
そのまま笑顔をぴくりとも動かさずに八戒はもう一度水場へ戻っていった。どうして八戒はあんなに怒っているのだろう、と悟浄は首をひねった。
「あらあら、怖いんだから。人の話は最後まで聞いてもらわないとね」
如意棒が悟浄の鼻先に人差し指を突きつけて、続きを言う。
「「…って言ったらどうする?」って言いたかったんだけどね。私」
「……まあ、イイ女は口説くのがイイワケで、口説かれるのは俺の性にあわねーな」
あっという間に見事に心に誰も立ち入らせない防御線を張り終えた悟浄を見て如意棒はくすくす笑う。
「そうでしょうね。それで、口説き落とした途端どうでもよくなるのよね」
「……本題に入れよ」
苦りきった顔で悟浄がいう。如意棒には今のところほとんど全てを見透かされっぱなしだ。
「そうねえ、本題ねえ……
世の中には普通に武器に比べて恐ろしく魔力や妖力の強い武器が時々出現するのよね」
「そして、その武器は、特定の使い手が使ってこそ最大の力を発揮するようになっているわ」
だんだん昇ってくる朝日がきらきらと輝き、如意棒のこれ以上ないくらい魅力的な肢体の輪郭を金色に縁取っていった。腕組みをして、如意棒は言葉を続ける。
「例えばあなたが錫杖を使うように。孫悟空が私を使うように」
にこ、と笑って如意棒は悟浄を覗き込んだ。
「他の人に使われても威力は半減するだけよ。―――だから」
「だから?」
聞いたことのない単語や理由をいっぺんに注ぎ込まれて悟浄はくらくらきていた。しかし、如意棒が言葉を区切ったことは気づいたらしく、続きを促してみる。
しかし如意棒はそれには直接は答えなかった。
「千の妖怪の血を浴びると妖怪になる、というのはどちらかといえば魔器の専売特許だったのよ。猪八戒は本当に特殊な事例だわ」
「………」
昨晩から何度も如意棒が八戒にそれを言っているのを悟浄は聞いていたから、そこにこだわる理由がほんの少し理解できた気がした。もっともこのとき如意棒がこだわっている理由と悟浄が少し納得した理由は天と地ほどの開きがあったのだが……
「そして、千の妖怪の血を浴びて出現する姿は、必ず使い手と違う性別になるのよ。
―――――――ナゼでしょう?」
「知るか」
「そうよねえ。……それじゃ」
そこまでしか言わずに如意棒は、八戒の手伝いをしようとでも思ったらしく水場のほうへぱたぱたとかけていく。
「ちょっと待てよ。それで終わりか?」
「賄賂ないんだもの。これ以上いえないわ」
不満げな悟浄に笑顔を向けて、如意棒は走り去っていく。
「…ていうか、きっとあなたには関係ないことだからね」
口の中でつぶやかれた言葉はもちろん可聴レベルの言語として認識はされなかった。