強さというのは一体何を基準にして計られるかといわれれば、結局その相手に対して自分が何かを優越しているかどうかだけ確認させられているだけではないのか
だからどうしてなどということは八戒にはさっぱりわからなかった。
気孔という力を自分は使うことができることはわかっているし、目の前に倒れていた紅い髪を持つ同居人の失血量が尋常でないこともわかっていた。
そして、とりあえず、自分もろくすっぽなめにあっていないこともわかっていたし、身体は悲鳴をあげ、節々から軋みをあげていることぐらいは自覚をしていた。息がうまく吸えないし吐けない。身体の先端部分にまで血液が届かない状態なことは自分の真っ白を通り越して紫になっている指の先を見れば一目瞭然だ。
青竜王と名乗る男の力はすさまじかった。目に見えない、この星自体が持つ重力という力を操るのだから当然尋常な敵でないこともわかっている。
じゃあなにを自分はこんなにぐるぐると考えているのだろうと八戒は思った。
悟浄の失血量を考えれば自分の力が役に立つならすぐにでもそれを実践するというのは当然のことだった。
傷をふさいで、血を止める。
当然のことをしたまでだ、でおわればいいのにそこから先へと八戒は思考を一歩進めてしまう。
じゃあなぜ自分はあんなに必死に悟浄に向けて気孔を放とうとしていたのか。
ほおっておけば死んでしまうからなのだが、じゃあどうして自分は悟浄をほおっておけなかったのか。平たく言えば、それは死んでほしくないと考えているのとほぼ同義語だと八戒は思った。
省みて、自分は悟浄にもてる力のすべてをかけて気孔を放ってしまったため、無様に今地面と仲良くお友達をしているしかない状態である。口の中に土がじゃりじゃり入って気持ちが悪いが、感覚を失った手でそれをかき出したりする力はもう残ってはいなかった。
無様なことこの上ない。
今青竜王が何か攻撃を仕掛けてきたとすれば簡単に自分は死ぬだろうと思い、それはそれでわるくはないのだが無様すぎて情けなさに涙が出そうになった。
悟浄に対して計算ずくで気孔の量をセーブすればここまでひどいことにならなかったのは明白だが、あの時八戒の頭から計算のその2文字はすっかり抜け落ちてしまっていた。
冷静に分析して、そのときの頭の中にあった思考は
死なせたくない
ただその一点だけだったのだ。
誰を死なせたくないかといわれればそれは当然悟浄ということになる。
例えば悟浄を死なせないことによってその場にいる誰かが助かるという計算も常の八戒であるなら当然し尽くした上での結論だといえるのだが、どうも今回はそうではないらしい。
それを認めるのは大変に癪なことではあるのだが、この無様さ加減を認めるのと似たり寄ったりであることも確かなので、とりあえず、八戒はそこまで思考を進めてから、だらりと身体から力を抜いた。
考えることが疲労を伴っている。
『半径5メートル以内に近づくなっ』
・・・・・・今まで聞いたこともないような悟浄の大音声が八戒にもびりびりと伝わってきた。
疲れたから変なことを考えるのだと、八戒は結論付け、それ以上思考を進めないためにも本気で脱力する(つまり他人様から見れば気絶した状態)ことを決めた。
「炎が…紹が……!!何故貴様らのような木っ端どもにやられなければならないのだ!!!」
「勝手に動揺してろ、オッサン!その変態な口きけねーようにしてやるよっ」
じゃらんと錫杖から鎖が伸び、半月形の鋭いその刃が不規則な動きを繰り返し、急に角度を変えて青竜王へと襲い掛かった。
青竜王は憤怒の形相のまま正確にその攻撃をかわし、鋭く短い口訣を唱える。
途端に、悟空が如意棒を支えにしても自らの身体を支えきれることができず、地面に崩れ落ちた。ぎりぎりと身体中全てにくまなくのしかかる重さに悟空は短く息を漏らして耐えた。
しかし、青竜王はさらにその目を見開いて悟浄に震える指先を突きつけてわめいた。
「何故貴様にはこの俺の力が届かない…?つい先ほどまで貴様は俺の前に這いつくばることしかできなかった!!貴様が、どうして…!」
「ぴぃっ!!」
鋭く一声鳴いて、ジープがばさばさと羽根を羽ばたかせた。悟浄の肩には大変止まりにくそうだが、仕方なくとまってやっているという表情をした後、青竜王を紅い小さな瞳で睨みつける。
「そんな理屈は俺にはわからねーけどよ、俺は今最高にてめーをブチ殺したい気分だぜっ」
悟浄の背中からまるで何かが立ち上っているかのような錯覚を青竜王は覚えた。
目の前の紅い髪と紅い瞳を持つ半妖怪に、確実に気圧されている。
半端ものの手に握られたのは1000歳にも満たないこれといった特徴もないただの魔器。
そんな組み合わせに自分がこのような目に合わされているという現実を青竜王は受け入れることができなかった。
「その小さな白い竜のせいか…?」
沸騰寸前の怒りに支配された瞳をぎろりとジープに向けて青竜王が低く声を押し出した。
「貴様も竜族の一員ならばこの東の守護神、竜族全てを統べる四海竜王の長兄にして天帝より東海青竜王の名を授けられたこの俺に逆らうとどういうことになるかというのはわかっているだろうな!!!」
「ぴぃぃっ」
ジープが一歩もひるまずその青竜王の深い青の瞳をまっすぐに見据えて一声鳴いた。
瞬間、青竜王の脳裏にフラッシュバックするつい先ほどこの白い竜を見て思い出したある人物の……
まさか。先ほどはまさかと思ってすぐに記憶から抹消してしまったが、
まさか……!
ぐしゃあっ
肉と骨が砕ける嫌な音がして、青竜王はゆっくりと自分の身体が地面へと膝をつく様をスローモーションのように自覚した。
右肩にめり込んだ半月形の錫杖の刃がしゅるしゅると音を立てて半妖怪の元へとかえっていく。
「てめーがくだらね―ことしてくれたおかげで俺の元同居人はえらいことになってるんだよっ」
間髪いれず悟浄は錫杖を繰り出して、青竜王にダメージを与えようとする。
鎖はジャラジャラと長く伸び、ずっと長いこと信じられてきた原子のモデルの周りを飛び交う電子の軌跡のような形に青竜王を取り囲む。
「如意棒……錫杖、大丈夫なのかよ……」
『たぶんね。彼女にとってこれが一番あるべき姿なのよ』
背中と足からだらだらと血を流し、苦しい息を吐いていた錫杖の姿を思い出して悟空は懇親の力を振り絞って如意棒にささやいた。
『私たち魔器は使い手に使ってもらえて何ぼの存在よ。妖怪形を取っているときに怪我したからといってそれは何の言い訳にもならないわ』
「…でも…っ!」
当然そんな状態の錫杖を知る由もない悟浄は今まで悟空がみたこともないような勢いと戦いに対する真摯な表情で、これでもかと錫杖の力を最大限に引き出そうとしているかのようだった。
『いい、孫悟空。錫杖の動きが何か鈍っているように見える?』
「…いや、見えない」
『ならば錫杖の最高の力を沙悟浄が引き出していると考えて頂戴』
「だって如意棒だってあんなに錫杖のこと心配してたじゃないか…!」
悟空に無理難題を―――しゃべる錫杖を黙らせろといった張本人が今度は心配する悟空の口を封じようとしている。
『孫悟空。錫杖が自ら戦うなどと思ったときにはそれは錫杖の意思、意識、精神、そう言ったものがすべて作用するの。あんな重傷を負って自ら戦われたら足手まとい以外のなにものでもないわ』
如意棒のその冷酷な宣告を悟空は黙って聞いていた。
『だけれど沙悟浄は錫杖を召還したの。つまり、沙悟浄の意識によって彼女は今戦っているのよ。―――だから…』
あえて最後まで続けなかった如意棒の言いたいことは悟空にとてもよく伝わった。だから、今、錫杖をとめるべきではないということを。
冷酷に聞こえるその台詞をさらりと言ってしまえるこの如意棒は、本当に戦闘に特化した存在なのだと悟空は思った。足手まといは必要ない。おそらくは彼女の主人が生き残るのに最適な方法を彼女はとるだけなのだと。
ずしゃぁっ
取り囲まれた鎖が一斉に青竜王に襲い掛かった。その重量自体を武器にして、青竜王の身体を打ち据えようとする。先端の刃は再び先ほどとおなじ肩を狙い、鋭く襲い掛かる。
悟浄の頭は真っ白に漂白されていた。
気孔を放った後起き上がることすらできず倒れこんだままの碧の瞳の元同居人の姿が、悟浄の怒りに火をつけた。
あんな姿をさらすことを恐ろしく八戒は嫌うだろうのに。それをさせてしまったこの自分の情けなさが悟浄には許せなかった。
もっと強ければ。あんな力などどうにかして打ち破っていれば。
少なくとも八戒をこんな目にはあわせることはなかったのに。
自分は弱いままだ。
恐ろしく大切なあの存在を守りきることができなかった子供の頃から少しも成長していない。
こんな薄汚い自分のためなどに誰かが傷つくことは耐えられない。
決して耐えられない。
「ぐ…!」
くぐもった低い声が青竜王の口から漏れ、同時に唇の端から血をあふれさせていた。
「オッサン!さっさと俺に殺されてくれ。てめーだけは絶対にゆるせねーんだよっ」
銀色に鈍く光る錫杖を突きつけて、膝をついた青竜王に向かって悟浄はそう告げた。
青竜王はぎりりと歯を食いしばり、唇からあふれた血をぬぐうと、恐ろしい目で悟浄を睨みあげた。
悟浄も同じように憤怒にたぎる瞳を隠そうともせずに青竜王に叩きつける。
ざああああああああっ
不意にバケツをひっくり返したかのような雨というより滝と表現したほうが適切な水の塊が落ちてきた。
一瞬虚をつかれた悟浄の錫杖を握る手が少しだけ緩んだ瞬間、青竜王はその場からかき消すように忽然と姿を消した。
ぴしゃぁん ドンッドオオオオンッ
雷光が真っ黒の雨雲を引き裂き、瞬間的に3匹の竜がその雷光をまっすぐに昇っていくのが見えた。