さすらひびとの楽園: 関口健一郎氏
迷い込みしやうにやうやく春が来てつぼみのひとつひとつに触れつ
空を行く雲の解凍始まりて能登半島は海風の国 いちまいの軽き辞令はわたくしをこの列島のさすらひびとに ぎこちなき春の光は地の上の草の芽ひとつひとつのうへに 雪解けの水は川辺にあふれたり海へと帰る喜びに満ち 灯を消せばひとりの部屋は静もりて終はらぬ夜の一部となりぬ たんぽぽの絮 風に乗り遥かなる都市に向かひてまた飛び去りぬ 星の月真下の恋の行く末を邪魔せぬやうにひつそり光る 西の空沈みゆく星少年が追ひ駆くる日を待たざるうちに 六月の海風暑し明日からは冬に近づく日々ありぬべし 平成一五年七月七日 能登空港開港 ランプまたひとつ灯りし深き森空港として目覚めはじめぬ 荒海を滾らせ落つる夏の陽よ踊る人みな朱に染まりて 歓声がぶつかり合ひしこの夜の祭りの中に我も紛れむ 開きたる花火の音の余韻かな 青春末期の我のめぐりに いづこにも戦ひはあり天の川光らぬ淵に誰を弔ふ 奥能登の夏は短し夕暮れの小さき蟋蟀草むらに消ゆ 避雷針とぎすまされし秋の暮れ決して届かぬ空に向かひて 能登は平家滅亡後に、清盛の義弟・時忠が配流された。 高圧線地を幾重にも巻きつづけ捕らへていたる夢のいくつか 新聞とテレビと電話に造られて東京はもう仮想現実 のと鉄道穴水・輪島間は廃線となる。 いくつもの夢を支へしレールから一本の鉄に戻りてゆきぬ 明け方の珠洲の海には漁火のほのかにゆるるこころのゆくへ 能登半島先端の町、珠洲市では、現在、原子力発電所の建設が議論されている。 子供らが「かごめかごめ」を歌ひたるあたりがきつと炉心予定地 内浦町九十九湾 静かなる入り江の彼方朝の陽は水面揺らさぬやうに昇りき 冷え初めし風は過ぎゆき廃れたる航路の跡は波ばかり見ゆ ゆっくりと愚直なままに走りゆく単線電車我を乗せつつ ジン一杯我の内部を焼きてをり何もせぬこと責めるがごとく かつて朱鷺載せたる風が紅葉をいちまいいちまい運んでゆけり 枯野原陸(くが)尽きるまで続きをり求めしものはまた眠りゆく 決められし手筈のとほり冬が来て街並み徐々に灰色となり 日が落ちし後の車窓に写りたる寂しき顔を銜へた眼鏡 どこからか冷気漏れ来る電車にて温もりという永久のまぼろし 若者は夜の街角でシャウトせりギターの丸き闇を抱きて たましひの不協和音を聴いてをり北風の中にとぎれとぎれに 拒絶など拒みしやうに繰り返す波音はみな闇の中から 三万度の星の光は孤独なる旅の終わりに雪踏む我へ 傷跡が確かに疼く真夜中に奪い返さむもののみあらぬ あやまちを重ぬる一生 積もりたる雪の上にはまた雪が降り 冬の海握りしめたる釣り竿は命一個の重みに撓ふ おおふねとなりて海行く夢をまだ見終えてをらぬ真冬の森は 体温をねじ切るごとく吹く風に街並みは皆黙し続けぬ 冬の夜に受信したりしEメール君の答えは降る雪の中 鳥の影駆けてゆきたり少しずつ緑が戻りはじめし野原を 誰からの言伝て待つや奥能登の木々は密かに芽吹きはじめぬ 飲み干せしコーヒーカップのぬくもり 失ひしものすべて優しき 凍返る大地は最後の祝福を受くためにまた白くなりゆく 君の手が添えられてゐる青色の傘の範囲の幸せありぬ 永遠は今ここにあり春の海天地の間おぼろになりて 四月一日、異動辞令の交付。私は見送る側となる。 若者が二人三人と去りし街充たすがごとく桜は咲きぬ 大陸と海を渡りし風の中人は小さく強く生きをり 半島のくれないにほふ桃の下さすらひびとの楽園がある |