雪は結晶で降ってくる


 雨の夜は八戒の様子がおかしいことぐらいは、とっくに悟浄は承知している。
 だからといって、あからさまに出かけないでいることも八戒は望まないことを知っている。
 それが悟浄の負担になっている、と勝手に八戒が思い込んでいることが問題なのだが、とにかくそれでまた余計に負担をかけることになるので、仕方なく悟浄は出かけることにしている。ただ、どんな些細な口実でもいい。できる限り早く帰って八戒のそばにいようと思う。
 ただ、どうしてそう思うのか悟浄には分からない。
 なぜ八戒のそばにいようと思うのか、どうしてそんなことを思うようになったのか悟浄には分からない。

 分かるのは、八戒には笑っていて欲しいと思う自分の心。
 八戒が笑ってくれるとものすごく嬉しい。
 それは結局自分のエゴだが、それでもその碧の同居人がとなりで笑ってくれていることが自分のこころに何かを満たしていく。

 どうしてそれがその同居人でなければならないのだろう。

 酒場に行けばうなるほど美女が寄ってきて悟浄の隣で微笑んでくれる。
 お遊びの女も多いが、悟浄のことを真剣に好きでいてくれる女だっているのだ。

 だが、彼女らの微笑みは、悟浄のこころになにの感銘ももたらさない。
 心の中がどうであってもベッドの上では関係なかった。
 女をよがらせ、イかせ、射精できれば文句はなかった。
 
 それがどうだ。
 八戒が来てから、「嬉しい」事がものすごく増えた。「笑っている」時間もものすごく増えた。
 時にはびっくりさせられるような行動もとるが、それでも八戒が笑って「おかえり」と言ってくれることがものすごく嬉しい。
 そもそも根本的に八戒が生を選んでくれたことが嬉しい。
 そして八戒がもう一度自分のところに来てくれたことが嬉しい。
 
 八戒が食事を作ってくれることが嬉しい。
 八戒がアイロンをかけてくれることが嬉しい。
 
 碧の同居人は、ただそこに存在してくれているだけで、悟浄に喜びをもたらす。どうでもよかったことが、どんどん悟浄に豊かな感情をもたらしてくる。
 
 こんな気持ちをなんと言うのだろう。
 欲しくて欲しくて欲しくてそれでもどんなに願っても手に入ることのなかった、自分に向けられるあたたかい笑顔。
 そんな笑顔を持つ人を、大切にしたいと思う。
 
 大切に、したいと思う。

 守るとかそういうのではない。そんな必要はまったくない。何せ、あんなに強い男は滅多にいない。
 外見は美人だしはかない印象があるし身体には不安を抱えているが、間違ってけんかを吹っかけてきた相手こそ惨めなものだ。別に悟浄が八戒に絡んでくる相手を殴り倒す必要もなく相手はあっという間に文字通り尻尾を巻いて逃げ出して、あとには八戒が何事もなかったかのように立っているだけだ。

 だから、そういう大切ではなく、その絶望の淵に突っ込んでいる片足を、これ以上深みにはまらせないようにすることができれば、と悟浄は思う。
 八戒にとってはいい迷惑かもしれないが、とにかく悟浄は八戒に生きていて欲しいのだ。
 笑っていて欲しいのだ。

 絶望の淵がそう簡単に埋まることはないだろうし、悟浄ではもともと役不足かもしれない。
 そんなことは何回も確認するまでもない、分かっている。
 あんまり確認したくなるから胸ポケットに入っている始末だ。

 八戒の手の血は、いつか必ず八戒自身が洗い流せる日がくる。
 八戒の絶望の淵は、いつか必ず八戒自身が浅くすることができる日がくる。

 そうしたら、きっともっともっともっときれいに笑うに違いない。
 その、笑顔を、見てみたい。

 「24日は、大切な人と一緒に過ごす日よv」

 どんな女が言ったか、とかその女の名前は、とかそういういうことは全て一切忘れてしまったが、その言葉は耳に残っている。

 大切な人。

 大切な人と一緒に過ごす日。

 24日は、大切な人と一緒に過ごす日。

 「大切な人って誰だろう…?」

 思わず口に出たその台詞に、悟浄自身が驚いた。
 ほんの少し前まで、「大切な」という感情すら理解できなかった自分が、大切な「人」を探している。
 
 大切な人とは大切にしたい人。
 それはそうだ、よく考えなくてもそのとおりだ。だから、ここに至って悟浄の思考回路はようやく一つにつながった。
 悟浄の大切にしたい人といったら―――

 「早く帰んないとな。雨だから、絶対、おかしくなってる」

 激しい雨を片手でよけつつ、悟浄は歩くスピードを上げ、ジーンズに泥がはねるのもかまわずに、森の中の一本道を走っていった。



 ガタン

 何か大きなものが窓ガラスにあたった音で八戒は我に帰った。雨に耐えかねて木の枝が折れたのかもしれない。

 何か、何か重要なことを自分は忘れているような気がする。思い出さなくては。ここに、こんなふうに涙を流していてはいけない何かがあったはずだ―――

 「悟浄、早く帰ってくるっていってましたね……」

 声に出すと、急速に思考回路が形成されていく。

 壊れてはいけない。もうすぐ悟浄が帰って来る。
 負担をかけてはいけない。あのあたたかな言葉をもつ紅い瞳の同居人に。
 こんな姿を見せてはいけない。きっと悟浄は、また悟浄の責任にする。そうじゃないのに。自分が勝手に壊れて、勝手に汚れて、勝手に泣いているだけなのに。
 醜いのは、汚いのは、ずるいのは自分。絶対に、間違いなく悟浄のせいではないのに。

 だから―――

 ―――悟浄が帰ってくるまでに、普通の顔をしていなければ。何事もなかったかのように、笑顔でお帰りをいわなければ。
 そうしないと、そうでないと、また、悟浄につらい思いをさせるだけだ。

 ―――そう、自分の存在が、悟浄を苦しめる。
 自分の犯した罪が、悟浄まで傷つける。
 あたたかな心をもつ、あの優しい人が、自分と関わりさえしなければ、あんなに苦しめることも、あんなに傷つけることもなかった。
 全てはこの自分の存在。罪に見合った惨めな死を選ぶべきであった自分の存在。

 やはり自分はこの世にあるべきではなかった。
 自分の存在は消えてしかるべき存在でしかない。

 ―――これ以上、自分に関わったあのあたたかい人を不幸にしないためにも。

 悟浄に負担をかけたくない。
 悟浄を悲しませたくない。
 悟浄を傷つけたくはない。

 だったら、自分の取るべき道はたった一つ―――

 八戒は、頬に残る涙のあとをぬぐい、痛む頭をおさえながらのろのろと立ち上がった。

 



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