うつろはんかな君待ちがてに




「…ああ、猪悟能がえらくご執心なのは貴様だな」

 男は悟浄を振り向くと唇をゆがめたまま言った。

「例えば…貴様を殺すと、猪悟能はまた1000の妖怪を殺すかな」

 言うが早いか男は悟浄に猛然と攻撃を繰り出した。短剣を蒸発させてしまったかわりに、手刀を息つくまもなく繰り出してくる。
 そして、一気に悟浄との間の距離を縮めると、あっという間に悟浄の首を掴み、そのまま持ち上げた。

「…悟浄!!」

 駆け寄ろうとして手をのばした八戒の周りを男は八戒の方を見向きもせずに瞬時に燃え上がらせた。

「……つまらんな」

 ぎりぎりと片手で悟浄の首を締め上げて、男は心底つまらなさそうにつぶやいた。
 自分の首を締め上げるその男の手に両手をかけて、悟浄はその手を引き剥がそうとする。
 
「……無駄だ」

 男が冷徹な宣告をくだす。

「あの百足の毒にやられたら、たとえ妖怪であってもそうそう簡単に治癒はしない。ましてや貴様は」

 そこでわざわざ言葉を区切って男は唇の端を三日月のようにつりあげて笑っていった。

「妖怪でもなければ人間でもない。ただの半端ものだからな」
「……き、さま……」

 まだ痺れが完全に取れない両手の指に力を入れるのは至難の業であった。いいように翻弄されて、悟浄は思い切り唇をかみしめる。

「…悟浄!!」
「おっと、部外者はちょっと引っ込んどいてもらいたいね」

 悟空が如意棒を握りなおし、その男に攻撃を仕掛けようとした瞬間、目の前に炎の壁が立ちはだかった。服を焦がし、燃え盛る炎が悟空とその男を隔てる。

「一応忠告しておくがね。先ほどの俺の芸当を見て、炎に突っ込んでくるような馬鹿な真似はしないほうがいいと思うぜ」

 なおも悟浄の首を片手で締め上げながら、愉快そうに男は言った。悟浄はまだ指に力を入れようともがいていたが、それは全くの徒労に終わっていた。

「…クソ……」
「すぐ殺すとつまらないからな」

 唇の端をつりあげて男は言った。これ以上ないというくらい口が裂けているかのように見える。

「猪悟能が一体何をしたのか貴様は知っているか」

 言うと同時に悟浄の首を一段と締め上げて、男は悟浄から声を奪った。

「大切な大切な双子の姉を百足妖怪に連れ去られたというだけで村の半分を殺し、村を滅ぼした。自分がその姉と通じていたなんてことは棚にあげといてな」

 炎の壁が一段と燃え上がり、多量の火の粉を吹き上げた。

「隣の家の娘の変わりに姉を差し出されたと知るや否や隣の家の住人の腹を裂き、胸をつきとおして惨殺した」

 声もなく悟空は立ち尽くしていた。三蔵は無言で腕を組み、じっと眼を瞑っている。

「悲鳴を聞いて駆けつけた近所のものはその血に染まったナイフで、あるものは眼を抉り取られ、あるものは耳をそがれて死んだ。血を流しながら助けてくれ、といった口をその男はナイフで引き裂いた」

 悟浄の額から幾筋も汗が流れ落ちた。口が、酸素を求めて大きく開かれる。

「……おまけにその姉を助けにいったかと思うと、百足妖怪一族を皆殺しにした挙句、結局姉も殺しちまった……」

 悟浄の首を締める手に力をいれて、これ以上ないというほどの憎しみの視線を八戒に投げつけて男は言った。

「誰も、何も、救われなかったんだよ!人が、妖怪が、無駄に死んだだけだ!たった一人の……そこにいる人畜無害な仮面を貼り付けた偽善者が何もかもめちゃくちゃにして、自分ひとりのうのうと生き残ってやがるんだ!!」

 悟浄の腕がだらりと下がった。男は腕を振って悟浄を投げ捨てた後、八戒の方にゆっくり、ゆっくり歩み寄った。

「なぜだ……?」

 人差し指を八戒の鼻先に向かって突き出して男は怒りと憎しみを結晶化したような声を押し出した。

「なぜ、貴様だけが生きて居るんだ……?」

 そして、自らが作り出した炎をいとも簡単にすり抜けて、男は八戒のすぐ前に現れた。

「大罪人は決して公正に裁かれることはない。そんなことはよくわかっている。だがこの仕打ちは何だ?なぜ貴様だけ生きて居る?なぜ貴様だけもう一度あたたかい人の和の中にいられる?なぜ貴様だけ、再び人を好きなることが許されている?!」

 炎の壁が八戒に迫り輻射熱で八戒の髪がちりちりと焦げていく。その熱を八戒は黙って耐えた。
 この男の言っていることは一片の曇もなく正しい。どれほど罵倒されようとも何度殺されようとも自分は償えない罪を犯したのだから。
 いつの間にか細いナイフを右手で持ち、そして男は八戒の胸倉を掴んだ。八戒は微動だにせず、男のなすがままになっている。悟空が歯軋りして八戒の名前を何度も呼んでいるのもまるで聞こえていない風だ。

「……その右目は義眼だそうだな」

 ナイフの切っ先を右目に当てて男は嬉しそうに言った。

「義眼なんて痛みも何も感じないだろう」
「……貴様……!!八戒を……離せ!」
 
 力の入らない指で懸命に土を掻いて、悟浄は立ち上がろうとしていた。しかし、男は悟浄に一瞥をくれると、八戒の右目にそのままずぶりとナイフを突き刺した。八戒は、眼球が押し込まれる違和感を感じた後、痛覚が一点にはじけたような感覚を覚える。切っ先が眼球を突き破り、眼底にまで達したようだった。

「八戒――――!」
「貴様が与えた痛みに比べればそんなもの何の痛みにも感じないだろう」
「…悟浄…!きちゃダメです――――」
 
 右目の端から血がだらりとたれているのが八戒には分かった。
 自分が傷付けられようが、引き裂かれようが、鞭打たれようが、それだけのことを自分はしてきたと八戒は分かっていた。
 自分が幸せなど、あたたかい気持ちなどもらってはいけない存在であることは忘れたわけではない。そんなことは決して許されない。
 人を好きになるだなど―――許されるわけがないのだ。
 
 しかし。

 それはあくまで八戒の都合であった。八戒が傷付けられるのはどうでもいいことだが、だからといって悟浄を巻き込むわけにはいかない。
 悟浄には、あんなきれいな魂をもつ紅の同居人には、どんな手を使ってもこんな汚い争いに巻き込まれてもらうわけにはいかないのだ。

「……このまま貴様を殺してもつまらないな。貴様にはあらゆる痛みを与えてやろう」

 そう言って男はす、と八戒から離れた。そして、炎の輪をじりじりと狭めていく。

「八戒―――!」
「そこから見ているがいい。焼け死ぬのが先か、俺がこの男を縊り殺すのが先か」

 男はようやく上半身を起こした悟浄の首を掴んで持ち上げた。

「悟浄――――――――!」
「ああ、焼け死なれたら貴様が大切にしているものを目の前で失ってもらえないなあ」
「…くる…なよ、八戒…!」

 炎の輪につっこもうとする八戒を制して、悟浄が言った。

「何悟浄やられてんだよ!!しっかりしろよ!!!」

 激しく燃え盛る炎の壁に阻まれた悟空が悟浄に向かって叫んだ。

「…フン、力もない半端もののくせにやけに丈夫だな。姉と通じた後は男にケツ掘られてよがっているような奴にはちょうど良いのかもな」
「……………貴様……!!」

 …悟浄の双眸に真紅の電流が走った。
 男の右手を掴む両腕に一瞬力をこめた後、その腕を悟浄は離した。右手がぼう、っと光を放っている。

「その汚らわしい口でこれ以上八戒を侮辱するな!!」

 怒りのオーラが悟浄の背後に見えるかのようだった。
 何かの気が悟浄の右手に集まっていくのが見えた。
 周りの空気がざわめき、そして、悟浄に向かってどう、と風が吹き付けてきた。
 
 真紅の髪を風にたなびかせた悟浄の右手がひときわ光ったかと思うと、先ほどまで悟浄の首を締め上げていた男が悟浄の首を締め上げていたその手を押さえて転がった。

「…貴様は俺が殺してやるよ」

 銀色に輝く釈杖を手にした悟浄が男の鼻先にそれを突きつけて言った。

「…よく言うぜ」

 男は不適に笑ってその掌の上に炎を燃やすが早いか、それを悟浄めがけて投げつけた。
 咄嗟に悟浄は釈杖でその炎を受けた。


「……やっとわかったか」

 今までしゃべることを忘れていたのかというほど黙って何かを考えていた三蔵が腕組みをほどいて言った。

「…三蔵?」
「猿!この炎、お前の如意棒で消せ!」
「消せ…ってあいつ石だって溶かしちまうんだぜ?!」
「いいから言うとおりにしろ」

 訝しがる悟空に有無を言わせず、余計なことはおろか必要なことも全くしゃべらず三蔵はまた腕を組んで胸をそらした。
 悟空はそれでも三蔵の言うことだからと如意棒を炎に向かって振り下ろす。
 
「……消えた…!」
「なんだと…!」

 燃え盛る炎の一部が確かに消えていた。
 男の顔にはじめて驚愕の表情がうつる。

「……消えるんだったら恐くねーや!」
「…サル、お前は八戒支えてろ!」

 如意棒を振り回して炎を消しにかかる悟空に悟浄が怒鳴った。

「手出しするんじゃねーぞ、こいつは、この俺が、絶対に殺す」
「……やれるもんならな」

 全身から炎を立ち上らせて男が言った。





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