水をください
「それにしても八戒さんの足、直るのが早いわね」
屈託のない笑顔で微笑みかけられて、八戒は、曖昧な笑顔でええ、と返した。
この話題をそらすためのうまい方法は、と八戒は考えた。頭の中が高速に回転し始める。
「すごい回復力ね。まるで、妖怪みたいだわ」
……自分が、機雷源の中を何の予備知識ももたずに歩き回っていたことを、ようやく八戒は自覚した。
春はまだその名を暦に刻むだけで、風は冷たく八戒の耳元を滑りぬけていった。
「悟浄―――――、私からのチョコ、受け取ってよー」
「あんたねー。もう14日なんかとっくのとうにすぎちゃったのにナニわけのわかんないこといってんの」
「だって悟浄14日になんか渡したら絶対食べてくれないんだもん。時期をはずすこのオトメ心がわかんないなんてあんたもトシね」
「何ですって―!!」
しなだれかかる女どもが勝手に同士争いをはじめたのを素っ気無く無視して、悟浄は、手元のカードに意識を集中しようとした。
「……なんだとよ」
「そいつはオソロシイな」
「だろ、この町には妖怪がいないからいいようなものだけどな」
隣のテーブルでは男たちが大ジョッキをあおりながら、噂話を肴にビールを豪快に飲んでいた。どこかの町から流れ着いてきたばかりらしいその男どもになど基本的に興味のない悟浄が、その会話にふと耳を傾けたのは、そこかしこにちりばめられているある単語に反応したからであった。
「何でも、いままで普通に暮らしていたやつらが、突然人を引き裂き、その生き血をすすり始めるらしいぞ」
「しかも、何の前触れもなく、だ」
そこまで話してぶるっと身体を振るわせた御髪の薄い少々横幅の広い男が意味ありげに声を顰める。
「……ひょっとして、百眼魔王の一族の全滅と何か関係があるのか?」
「さあ、そこまでは俺は知らないが……」
ぶんぶんと勢いよく頭を振り回して、幅の広い男の対角線上にいたやせて口髭ばかり目立つ男がビールをあおる。何か、取り付いたものでも振り落とす勢いだ。
そもそも、妖怪の全滅と妖怪が狂うことを同列に扱うことが出来る訳ないことくらいは、冷静に考えればこの男たちにもすぐに分かりそうなものである。しかし、あえてその冷静な思考回路を男たちは無視して、言葉は空になるジョッキの数に比例して、勢いよく回り始めていた。
「それでも妖怪は耳がとがっていたり、爪が長かったりするからみたらすぐわかるじゃないか」
「それがお前妖力制御装置をつけられると厄介なんだぜ」
「ようりょくせいぎょそうち?」
「なんだそれ?」
口髭の男が、さも得意げに胸を張ったあと、あわてて前かがみになり、一層声を顰めて回りの男たちに向かって言った。
「そいつをつけると妖怪でも人間の姿を保っていられるというシロモノよ。見た目は全く普通の人間と変わらなくなるからたちが悪い」
「耳がとがらないのか?」
「俺も実際には見たことないが、そいつをつけると、たちまち耳は引っ込み爪も普通の長さになって、伸びてた髪の毛まで縮んじまうらしいぜ」
周りの男たちが息を呑む音が悟浄に聞こえてきた。
ところで悟浄の目の前の男はこれ以上ありませんというくらいに渋面を作り、なかなか次の一手を出そうとしない。唇の片端だけ上げて悟浄は相手を挑発すると、あまりに簡単に男はそれに逆上し、フォーカード、といってカードを机にたたきつけると、悟浄に睨み殺すような視線を投げつけた。
相手をするのも面倒だとばかり悟浄は手持ちの札をひらひらと男の目の前に落とすと、そこにはエースナンバーが4色揃っていて、口をだらしなくあけたまま男は呆然と椅子に座り込んでしまった。
ついてしまった勝負にもう飽きた悟浄は、さり気なく、注意深く隣のテーブルの客の話に全神経を傾けた。
「そいつはすげ―な、そんなもんつけられた日にはちっとも見分けがつかなくなっちまう」
「それでその制御装置ってのはどんな形してんだ?」
横幅の広い男の隣で、さらに横幅の広い男が、ハンカチで汗をぬぐいながら熱心に話しに加わっている。うっとおしいことこの上ないが、悟浄は我慢してその話を聞いていた。
「大概は金や銀で出来ているらしい。しかし、形はさまざまで、特定は出来ないそうだ」
「例えばなんだよ、例えばでいいから」
「……俺がきいた話しによると、やはり、脳周辺につけたほうが効き目が出やすいらしい」
「…じゃあ、指輪はありえないってことか?」
「ところがそうとも限らないんだよなー」
口髭の男は頭を抱えて机に突っ伏した。
「よくわかんねーんだよ。実際。いままでそりゃあ妖怪にも悪いやつはいたが、そんなの人間に悪いやつがいるのと同じレベルだと俺は思っていた。だが、そうじゃね―んだ。明らかに、妖怪だけが、悪くなってきている。無茶苦茶だ」
周りの男たちが、口髭の男の背中を叩いたり、ゆさぶったりして、その男を励まそうとしている。口髭の男はがたがたと震えだした。
「俺は忘れられねえ……今の今まで、穏やかに笑って一緒に話をしていたやつが、突然苦しみだしたかと思うと、牙が伸び、爪がますます伸びて……最後の理性を振り絞って、危害を加えたくないなんて言い捨てて、部屋のガラスを割ってどこかに出て言っちまったきりだ」
震える身体を両手でかき抱いて、口髭の男はこれ以上ないというくらい目を見張って話を続ける。
「俺のいた村は半分以上が妖怪だったからな。次々と狂っていくおだやかなあの妖怪たちが怖くて、怖くて怖くて、俺はここまで逃げてきた……」
横幅の男とさらに横幅の男が、両脇から口髭の男を支えている。口髭の男はとうとう堰を切ったように涙を流し始めた。
「制御装置は、あるものはカフス、あるものはイヤリング、あるものは金鈷、あるものはピアス、あるものはボタン、あるものは眼鏡……」
とにかくそういうものをいつもつけては離さないやつがいたら要注意だと、それだけ言うと口髭の男はぱったりと机に倒れこみ、安らかに寝息を立て始めていた。
心がざわついて、悟浄はそわそわしだした。とにかく、八戒のところに帰らないといけない、とそう思った。
「カフスに眼鏡……そういえば……」
さらに横幅の男がぽん、と右手で左手を打った。
「そういう格好をしたやつを、俺はバザールで見かけたぞ」
横幅の男が驚愕に目を見開く。
「碧色の瞳をもつ、背がやたらと高い若い男だった。西方風の屋台の前で、そこの女主人と話し込んでいたぜ」
途端、悟浄の周りの空気が、瞬間的になくなったかと思えるような息苦しさを悟浄は感じた。
巨大な不幸中の幸いとして、さらに横幅の男の声は高くもなければ低くもなく、可聴領域は悟浄でギリギリというところだったため、そこにいた趙量や、常連客や、この町にずっといるものたちには聞こえていないことだけが救いだった。
ガタン、と必要以上に大きな音を立てて、悟浄は席を立った。
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