水をください
今の今まで、穏やかに笑っていた隣人が、突如として豹変し、髪を振り乱し、牙をむき、長い爪で次々と襲い掛かってくるという。
狂った妖怪どもが、いきなり人間を襲うという。
西方での、話だ。
原因は、全く、不明――――――――
「三蔵ー――――!やっと見つけた!」
「煩い、この猿っ」
条件反射のように、ハリセンを取り出して、三蔵は勢いよく悟空の頭をぱああん、とはたいた。ものすごい勢いで走ってきていた悟空は、そのハリセンで叩かれた拍子に地面とお友達になりかける。勿論、悟空の運動神経はそれをギリギリで回避し、くる、とまわってきれいに体勢を整えはしたが。
「…何も聞かずに殴るなよっ」
「貴様の話など聞く価値もない」
仏頂面でそのまま三蔵はすたすたと歩み去ろうとする。経文は肩にかけてあるが、金冠はかぶらない、いつものいでたちで、三蔵は私室への歩みを速めた。
「ひっでーなー。どっかのエラソーなやつから三蔵探してこい、って言われたから俺一生懸命探してたのに」
悟空が髪をかきまわしながら三蔵に向かって言う。三蔵はその言葉に違和感を覚えて、思わず悟空を振り返った。
「……めずらしいな」
寺院の僧侶たちの言うことなどきれいに無視してはばからない悟空に、言うことを聞かせるとはなかなか大物の「エラソーなやつ」である。もっとも三蔵にはそのエラソーなやつに心あたりがないこともなかったのだが……
しかし。
「うーん、なんかね、被り物かぶったじ―さんだった」
悟空が記憶を掘り起こして律儀にその人物の容貌を伝えた。三蔵は、記憶の回廊を幾ばくも歩かないうちに、その特徴をもつ人物にすぐに思い当たった。
「……なるほど」
三仏神が出てくるとなるとかなり事態は大事だ。しかも、いつものように寺の坊主どもに伝言という形式ではなく、わざわざ悟空を通して伝言、というところからして非常事態だといっても過言ではないだろう。
「んで、そのじ―さんがさ、シャヨウデンにこいってさ。ついでにこれもくれたぜ?」
焼きたての獣の肉の串をうまそうに頬張って、悟空はにこにこと笑っていた。三蔵は、その串の出所が立った一箇所しかないことは瞬時に判断できたが、どうしてその出所からここにまで串が運ばれてきたのか考えることを放棄し、一人こめかみを押さえてとりあえず事態を整理しようと固くこころに誓った。
「八戒さ――――ん」
「こんにちわ、月明さん。最近よくお会いしますね」
三蔵がこめかみを押さえる少し前、八戒は夕食の買出しにバザールに立ち寄った。自分でもよくバザールにくるようになった、と思ってはいるが声をかけてくる相手は自分以上にそう思っていることは想像に難くなかった。
今までなんとなく、バザールに行くときは悟浄と一緒、と思っていた部分があって、一人でくることはほとんどなかったというのに、ここ最近は頻繁に月明の顔を見ている。それはつまり、頻繁に串をかっているというのと全く同義語であるのだけれども。
「そんなことより。ほらほら、2月14日はどうだったの?」
月明がもとは白かったであろう、今はなんだかいっぱいしみのついたエプロンで、手を拭きながら八戒のほうに駆け寄ってくる。
「……それはまたずいぶんと昔の話ですね」
「作者が間あけちゃったから仕方ないじゃない。いえ、そんな裏側の話はどうでもよくって」
やたらめったらにこにことして月明は下から八戒の長身を覗き込んだ。
「ちゃんと串を上げましたよ」
ため息をつく寸前の、そして苦笑する一歩手前の表情で、八戒は言った。
「それでそれで?その串を悟浄はどうしたの?」
「綺麗に平らげてくれましたよ。1つ残らずね」
「それでそれでそれで??」
わくわくした表情で月明が続きを促す。きっとしっぽがついてたらちぎれんばかりに降られているんだろうな、と八戒は月明に聞かれたら殺されそうなことを頭の中で考えた。
「美味しかった、ありがとう、って」
「それで?」
「……え?」
「え?って何よ、それで、その続きはどうなの??」
「それだけですよ」
見る間にしっぽが丸まり、耳まで下げてしまったのかのように月明の顔から笑顔が消えた。
「………………………それだけなの?」
「それだけですよ」
もう一度八戒がそれだけですよ、とこたえると、月明ははっきりと肩を落としてうなだれて落ち込んだ。
「14日なのに、悟浄さんはそれだけだったの?なーんにもなかったの?」
「なんにもって…月明さん、残念ながらけしかける相手が違ってましたよ」
これは苦笑してもいいだろう、と八戒は思い、苦笑して月明に告げた。
「僕だって一応バレンタインくらいは知ってます」
「……………………………それじゃあ、悟浄さんは……」
「悟浄はそーいうのにはとことん疎いですよ。女の人にモテモテですから、よっぽど悟浄の方がそういうこと知ってそうですけれどね」
そういうと、月明はしばらく落ち込んでいたが、やがて顔を上げて八戒に向かって笑い、舌をちょっと出した。
「読みが甘かったってわけね、やられたわ」
そう言って苦笑して、降参のポーズを月明はとった。八戒もつられて苦笑した。
そしていつの間にか二人の足はやはり彼女の店へと向かっていた。
「ところで八戒さん、足の具合はもういいの?さっき大将にあったらかなり心配してたけど」
「……ええ、おかげさまで」
この話題をそらすうまい方法は、と八戒は考えた。
あまりに月明に足のことを聞かれないのですっかり油断してしまっていた。
三蔵は確かにあのとき自分に忠告してくれたというのに。「松葉杖を忘れるな、回復力を疑われる」、と。
「それにしても八戒さんの足、直るのが早いわね」
屈託のない笑顔で微笑みかけられて、八戒は、曖昧な笑顔でええ、と返した。
この話題をそらすためのうまい方法は、と八戒は考えた。頭の中が高速に回転し始める。
「すごい回復力ね。まるで、妖怪みたいだわ」
……自分が、機雷源の中を何の予備知識ももたずに歩き回っていたことを、ようやく八戒は自覚した。
何か言おうと口を開きかけて、結局何も言うことができないことに気付き、何度か口の開閉を空しく繰り返した。
「……どうしたの?八戒さん」
月明が小首をかしげて八戒を覗き込んだ。突然黙り込んでしまった八戒に少し不審の表情を向ける。
「……これは、なんと言う食べ物なのかしら」
上品で物腰のやわらかい声が、月明に、かけられた。月明と八戒は同時にその声に振り返った。
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