水をください 





「三蔵って…達筆なんですね」
「字が下手だったら最高僧様の権威にかかわるだろうな」

 深いフードの人物に渡された書面を前に、二人は今が真夜中だということもすっかり忘れて、食い入るようにそれを見つめていた。

 その書面はおよそ書き掛けのものであるらしかったが、珍しく、本当に珍しく、槍が空から降ってくるといわれたほうがまだ信じられるくらい珍しく、あの三蔵が言葉を選んで文章を組み立てている。

「三蔵なら一言でずば、というような気がしましたが…」
「一言でずば、といえるほど信用されちゃ−いないってことだろうよ」

 西方で突如狂いだす妖怪たち。
 人間を引き裂き、血をすすり、肉を食らう。
 妖怪だけが、狂いだしている。

「僕はともかくあなたは妖怪ってわけじゃないじゃないですか」
「俺はともかくおまえはついこの間まで人間だったわけだぜ」

 …二人の間に沈黙が流れる。

 1000の妖怪の血を浴びて、妖怪へと転生した自分。
 狂っているというのなら、あのときからとっくに狂っていたのだろう。

 許せなかった。
 花喃を守りきるなどとうぬぼれていた自分が。
 勿論、最愛の彼の人を救い出すつもりだった。
 救い出して、そしてどこか遠くで、今度こそ誰にも邪魔をされることなく、二人で、生きていこうと思ったのだ。
 人間の足で何ヶ月もかかる百眼魔王の城まで何日も何日も走りつづけ、盗賊の馬を奪い倒れるまで走らせて、ようやくたどり着いたそこでは――――――
 最愛の人は、自らの半身だと信じていた人は、陵辱の限りを尽くされたあとだった。
 そして自分は――――――

「妖怪は、妖怪をおそわね−のかな」
 ぽつりと悟浄は言った。
「本当に見境なくして、狂っちまったんだとしたら、そこかしこで妖怪の同士討ちを見物できるはずだぜ」
 そしたらお互いに死んで恐怖はそれほどあおられなかったはずだけどな、と続けた後、悟浄は額に少しだけしわを寄せて、右手をあごに当ててその言葉をもうちいど反芻してみた。
 確かに、目に入るもの全てを惨殺しているわけではないだろうことは断片的な情報しか入ってこないこの小さな町に住んでいる悟浄ですら判断できる。
 聞こえてくるのは、妖怪が、人間を、惨殺するというただそれだけ――――――

 情報か、事実か、あるいはその両方か。

 何らかの悪意ある操作を直感的に悟浄は感じ取っていた。


 …妖怪が、人間を惨殺するというそのうわさの中に兄の名が出てこないのは悟浄にとって幸いだろうか。
 義母に疎まれたこんな自分を助けるためだけに、自らの母を殺さざるを得なかった兄とはその後連絡をとることはおろか、消息さえもつかめていなかった。
 義母が流した血の海に呆然と座り込む悟浄の前で、血の涙を流しながら、兄は、黙ったまま家を飛び出していってしまった。それきりだ。
 そこまでしてこんな薄汚れたちっぽけな命を救ってくれた兄に、申し訳が少しは立つようになるまでは死んではならない、と悟浄は思ってきた。
 生きることはどうでもいいことだったが、死ぬことは、許されざる行為だった。
 それが。

 生きることが、どうでもよくなくなったのはいつからなのだろう。
 人が、生きている、ということを強く自覚するようになったのはいつからなのだろう。
 自分の隣にいる人が、生きていてくれているというただそれだけの事実をあんなにうれしがることができた自分が悟浄には滑稽で、そして、その滑稽さ加減がなんだか心を満たしていくような気分になることが…それすらもうれしかったのだ。

「同士討ち、ですか」
「そうだな、とりあえずイミもない殺し合いだ」
「理由のある殺し合いの方が高級だとは僕には思えませんけれど」

 三蔵からの書面をぱさりとテーブルにおいて、八戒は立ち上がった。

「―――それで、悟浄はどうするんですか?」







「……ようりょく制御装置……?」
「ほらやっぱり知らないんじゃない、そんなことすら知らずに人を妖怪呼ばわりなんてなんてポーツェをはくのよ!!」

 月明はさらに坊主どもにむかって一歩を踏み出した。
 絨毯屋の女主人をつかんでいた手を離し、坊主の集団のリーダー格は、月明をにらみ殺しそうな目でにらんで、憎悪の塊を隠すところなく投げつけた。

「…そのような妖しげなものがこの世に存在するわけないではないか」
「あんたたちの知ってることが世の中全てだと思ったら大間違いだわ、アホじゃないの」

 一歩もひるまず立ち向かう月明を、周りの野次馬たちも支持をする。

「そーだそーだ!この変態坊主!!」
「貢物がなかったからっていびりにきただけだろう!」
「威張り散らすな!!」

 群衆の声に怒りで顔を赤黒く染めて、リーダー格の坊主は肺をからにするほどの大きな声で怒鳴り散らした。

「――――――うるさい!我らは玄奘三蔵さまの部下であるぞ!!」

 ……先ほどまでの勢いを見事なまでに三蔵の名前にくじかれて、しん、と一気に群集は静まり返った。

「だから何っていってるのよ。いい、本物の妖怪なら、いつも身につけてる何らかの小さなものを剥ぎ取ったら、あっという間に妖怪に変化しちゃうんだから!」

 どよ、と言うざわめきが群集から立ち上った。
 西方の、百眼魔王に滅ぼされた村から逃げてきた、背の小さな、串焼き屋の女主人を中心に、まるで水面に小石を落としたかのように、動揺は同心円状に広がっていった。

「……あんた、いっつも数珠を身につけてるわよねえ。その数珠を取ったら、あんたの耳が尖って、牙が伸びて、爪は鋭く、髪が生えて―――」
「そのようなわけがないだろう!女、今まで黙って耐えて来てやったものを……!」

 逆上した坊主は、見境がなくなったらしい。明らかに自らより背も小さく、腕力もなさそうな小柄な鈴を転がすかのような声の持ち主に殴りかかった――――――

「…見境なく殴りかかるなんて…あなた、本当に妖怪じゃないんですか」
「……ぐっ……!!」

 右腕をねじり上げられて、苦痛のうめき声をもらした坊主の右腕の先には、碧の瞳を持つ青年が一見柔和な笑顔をたたえて、足を軽く開いて立っていた。

「……貴様……!!!」

 周りの坊主どもが八戒を取り囲む。いつの間にやら手にはヌンチャクやメリケンサックが握られていた。

「……僕は売られた喧嘩を好き好んで買うような親切な人間じゃないですよ」

 にこリ、と微笑んで八戒は坊主の集団を見渡す。

「まあ、あなたたちがどうしてもやりたいというならしぶしぶその喧嘩を買ってあげてもかまいませんが。―――ああ、いい忘れていましたがそこの女性に手を出したらあなたたち逆さにつるして背中にカタツムリをはわせますよ」

 人を食ったような言い方にさらに逆上した坊主の集団が、それなりに統率が取れた戦闘態勢をとる。

「殺(シャア)!!」

 気合を鋭く入れた声とともに6人が前後左右から八戒に向かって突進し、そして――――――

「……なんだなんだ??」
「なにが起こったんだ?」

 野次馬たちが目を白黒しながら目の前に積み上げられた、元坊主を指差した。
 そこには、うめき声をあげながらうずくまっている先ほどの6人が無造作に積み上げられていた。

 腕をねじりあげられていたおかげで、唯一無事だったリーダー格の坊主は、口を何度かぱくぱくさせたあと、それでも背後の八戒を睨み殺しそうな眼で右側から見上げた。
 
「……貴様、猪八戒だな。そうか、読めたぞ」

 くっくっ、と下卑た笑いを浮かべ、その坊主は精一杯胸をそらして、虚勢を張って言った。

「貴様こそ妖怪に違いあるまい。――――――片時も、その片眼鏡を外したことがないはずだ」

 ざわ、という音が群集から立ち上った。

 そういわれてみると、確かに八戒は片眼鏡を外したことがない。
 あっという間に坊主どもを叩きのめしたことから考えても……

 八戒が苦笑して、口を開きかけたのを制したのは、先ほど八戒に助けられた、何かというと八戒に串を売りつける逞しいバザールの女商人だった。

「確かにそうね」

 月明は腕を組んで数歩歩くと、くる、と八戒のほうを向き直り、言葉を続けた。

「その片眼鏡は、玄奘三蔵さまから賜ったものですしね」

 ――――――声にならない衝撃が、その場にいた全ての人間をなぎ倒したかのようだった。
 白い顔をして、八戒は、月明を見返した。






 

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